すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

味噌汁もご飯もがんがん食べろ

2010年06月13日 | 雑記帳
 山形での東北青年塾に参加させていただいた。
 http://seinenjuku.abetaka.jp/ 

 野中信行先生のお話を直接聴くことができ、いろいろと考えさせられることがあった。
 野中先生がなぜ今「『味噌汁・ご飯』授業」を提起なさるか、という点については、先生が教員として務められた地域の実態や教員採用にかかわる現状が大きな背景になっている。
 しかしそれだけでなく先生ご自身の教職や授業についての問題意識が下地になっているのだと考えられる。

 その意味では自分も重なる部分が多いのかな、とふと思った。
 TOSSや野口芳宏先生以前の話として、水道方式や仮説実験授業という言葉をさらっと出されたのでそんなイメージを持ったのかもしれない。

 私自身の中で、かつてマニュアル的な指導の中で大きな位置を占めたは「向山型算数指導」であった。
 こうしたことが国語科でもできないものか、といわゆる「学習の手引きの細分化」といったイメージを持ってサークルに資料を出したときもある。この点についてその後進展させられなかったのだが、まだ頭の中には留め置いている。

 さらに遡れば、初めての大きな国語教育の大会で、私が発表題としたのは「『書く活動』を取り入れた授業の工夫」だったと記憶している。
 中心は「視写」と「筆答」であった。教材文を読み、その後教師と一部の子どもの応答に終始するのではなく、全員の活動を保障し参加を促すための設定だった。青木幹勇先生の『第三の書く』に触発された実践だった。
 ある参加者に「ごく普通のことを研究的に仕上げた」と評価されことが印象に残っている。これだけはというテーマやポイントを強く持つことは、他に波及すると考えてよい。

 最後の質疑応答で、野中先生が「ノート指導を入れておけばなんとかなる」と答えたのは、書く活動の有効性とともに他の要素と大きく絡まる点が大きいからだと解釈できる。

 誰でも作れる「味噌汁・ご飯」ではあるが、そこにはやはり基本が必要だ。細かく見ていけば基本にも様々な種類や違いがあるのだろうけど、それをあまり気にするのは得策ではない。

 必要なのは、我が家の「味噌汁・ご飯」ではないか。
 つまり、我が学校、学級の「味噌汁・ご飯」のような気がする。もちろんそれはどこかから仕入れなければならないのだが。
 「日常的・飽きない・栄養価がある」ものをまず食べさせることが担任の大切な役目である。

 それにしても阿部隆幸さんの発した質問は面白かった。
 私なりに「『味噌汁・ご飯』の主語は誰か」と解釈がしたが、提供する教師と食べる子どものどちらに重きをおくか、ということだろうと思う。

 目の前の子どもたちの状況にもよるが、基本的に今の私だったら「文句を言わずにがんがん食べろ!」ということになりますかな。