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教育する権利を棄てないこと

2011年05月02日 | 読書
 『総合教育技術』誌5月号の特集は「家庭教育力」であるが、冒頭の論文で、内田樹教授(もはや大学教員は辞したらしいが私にとっては教授という呼称がしっくりくるなあ)が、こんなことを書いていた。

 教育というのは社会全体が取り組む事業であり、その中のどこか一部分だけが選択的に劣化するというようなことはありえない。

 つまり、もし「家庭教育力」が衰退しているのであれば、「学校教育力」も「地域社会の教育力」も衰退しているのだ…すべての「教育力」が衰退していることの一つの「露頭」であるのだ、という見解である。
 しごく納得である。

 さてここで思い出すのは、野口芳宏先生が、よく講演の折に問われること。

 「子どもが健やかに育たない。教育がうまく進まない。いったいどこに問題があるからなのか。学校か家庭か地域社会か、教師か親か政治家か…」


 言い回しは折々で異なるが、よく口にされる言葉である。
 対象聴衆がどんな場合であっても(圧倒的に教員が多いだろうが)、どれか一つに挙手を求めている。

 内田教授の論に従うと、その問いに対する答えは全てに当てはまり、複合効果?が正しいということになる。
 むろん、野口先生はその点は重々ご承知のうえで訊かれているのだろうが、それでもなおかつここに選択肢を準備するというのは、やはり強い思いがあるからだろう。

 常に自分の責任と受けとめよ

 「責任内在論」を背負ってみんなで向かうことが大事であり、結局はそれしか打開の道はないと言っているのだと思う。
 まして学校の教員が、その責任を社会や家庭に押し付けようとするなら、その仕事からは何物も生まれないだろう。

 しかしまた、その心がけを持ったとしても、内田教授が書いていることは、さらに問いをつきつける。

 私たちは「子どもを教育する権利」そのものを放棄することについて国民的合意をしたのである。

 いつどのように合意したか、と安直には問われない。

 「なぜ勉強するのか」に対する返答が「報償と処罰」で語られる限りは、子どもはその社会から降り、逃げ出す権利も持っているからである。
 具体的な場面について語っているわけではない。しかし勉強に関して直接的な任を負う私たちの責務はきっと考えている以上に重く、深い。

 自分の学校を、自分の教室をどう作ろうとしているのか、という根本といつもかかわりあっているし、いったい「学び」とは何かと突きつめて考えることを避けていては、光は見えない。