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懐かしい場所から離れるとき

2011年05月14日 | 雑記帳
 先日の放課後、中学校1年生の女子数人が、部活動が早く終わったと言って、学校を訪れた。
 といっても初めてということではなくもう何度か来ているのだが、その娘たちに、「そんなに小学校、懐かしどご?(懐かしいのか)」と訊いたら「うん、懐かしい」と言って、校内のあちこちを廻り始めた。

 このような風景が今の時期は全国各地でどこでも見られるのではないか。

 そのうちの一人と冗談まじりに会話してみた。

 「いつでももどっておいで、6年生に入れるから…」
 「ああ、それなら○年生(旧担任が受け持つ学年)の方がいいなあ」
 「そんなに中学校は駄目なわけ?」
 「うん、まず休み時間が短いでしょ。その短い間に着替えとか何かいっぱいしなくちゃならないし…」
 「それは慣れてくるだろう。」
 「まあ、なんと言っても、テストテストと言われること」
 「そうかあ、それもそのうち慣れてくるか」
 「そうかなあ…」

 さて、「懐かしい」という言葉、私たちはふだん「過去のことを思い出して、それに心が引かれる気持ち」ということで使っているのがほとんどだが、調べてみたらそれだけではなく「そばにいたい、親しみがもてる」という意味もある(広辞苑の最初に書かれているのはそれだ)。
 「なつく」という動詞の形容詞形であるので、もともとはそういう意味から派生したのだろう。

 だからまだひと月少ししか立たない中学校1年生が、6年間過ごした場所を「懐かしい」というのは別に使い方がオーバーなわけではないのだろう。

 まだ、中学の生活リズムに乗れていない子が多いだろう。それがしっくりくるようになったら、今度は様々な活動に心身が染まってきて、中学校生活にナツクようになるということである。
 そうして、だんだんとそこが「懐かしい場所」となっていく。

 そういうふうに考えると、学校を「懐かしい場所」とすることが、毎日の私たちの営みの意味だろうか。
 それは、帰属意識を重くとらえる極めて日本的な見方ということもできるし、初等教育の場ではやはり学校がその役割を担うことが自然でかつ重要であるとも考えられる。

 懐かしい場所を持っている人の幸福、私はそれを信じたい。
 それゆえの束縛という面も確かにあろう。
 積極的な場合また何かやむを得ない事情がある場合のいずれにしても、自分の決断を誉めるという形で分岐点を振り返りたいものだ。

 中学生に、こんな話をしたわけではない。