すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

生き残った意味を問う意味

2011年05月09日 | 雑記帳
 録画しておいたNHKスペシャルをみた。

 http://www.nhk.or.jp/special/onair/110507.html

 『三陸海岸大津波』という文庫を読み終えたばかりだったが、その映像の凄まじさ、証言の生々しさは、やはり文章を凌ぐような気がした。

 車ごと流され、引き波の時に橋のところで引き上げられて助かった男性の言葉が、ずんと心に残った。こんな一言だった。
 
 「このまま車の中にいて海に流されれば遺体は見つからないだろう。車の外に出れば遺体は見つかるかもしれない、と思った。」
 
 死を覚悟したかどうかは定かではないが、そんなことを考え、思い切って外に出たところで、たまたま橋の上に居た人の声を聞くチャンスを得たのだという。

 もちろんそうした極限状況に直面したことなどない。どの程度冷静であったら自分の遺体発見を想像するという考えに到るのか、全く自信がない。
 しかし、その時、その場所では似たようなことを考えた人は、多くいたのかもしれない。
 そして、多くの方は亡くなった。

 生死を分けたのは何か。どんなふうにそれを考えていくのか…。
 「生き延びた」人たちは、どんなふうに心に決着をつけるのだろうか。
 もし自分だったら…と考えもする。


 放送日と同じ7日の「内田樹の研究室」ブログに、次の文章がある。

 私たちがもし幸運にも破局的事態を生き延びることがあったとしたら、私たちはそのつど「なぜ私は生き残ったのか?」と自問しなければならない。
 (略)
私が生き残ったことには意味があると思わなければ、死んだ人間が浮かばれないからである。

 何万、何十万の人たちがその思いを抱えて生きていくことになる。
 応援の意義はそこにあると思った。