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寛容しない本を読む

2011年05月07日 | 読書
 読みだしてからとんでもない選択だったなあと思った。
 この2冊である。

 『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』(福田和也 角川事務所)

 『対談集 むのたけじ 現代を斬る』(むのたけじ・北条常久 イズミヤ出版)

 思想・信条について詳しく知っているわけではないが、かなり離れた、対照的といってもいい位置にいるだろう二人の論客の本を続けて読んだ。

 福田の著は90年代後半の発刊だが、内容として特に古さは感じなかった。
 「幼稚」という意味について、福田が定義した「肝心なことに目をつぶっている」という文章には納得がいく。
 その目のつぶり方が意識的なのか無意識なのかに関わらず、生死や国家についてどこか安易な論(というより雰囲気)に寄りかかって、自らの思考を停止させてしまっている現状は確かである。

 今、この大震災によってかなり揺さぶられた感はあるが、それも上滑りにならないためには、よほど慎重に情報、メディアそして何より自分の足元を見つめていなければいけない。

 福田の言う「大きな価値」の存在をどう受けとめるかは様々にしろ、次の在り様は教育に関わる大人として肝に銘じたいと思った。

 大きな価値を親が信じていて、その価値と拮抗する形で、子供をかけがえなく思うからこそ、子供は自分の価値を感じることができた、信じられた

 時代が抱えた激しい生き方、辛くも厳しい生き方こそが教育の下地になっていたのは過去のことだった。
 その替わりに何を据えるかを本気になって考えてきたかどうか、その差は、個人にとってとても大きい問題だ。


 むのたけじが信じた大きな価値は、福田のそれとは違っていて、個の尊厳という点に根ざすように思う。
 しかもその視野は広く、深い。

 学生運動や解放運動への参画のあり方も、思想的な判断をもとにしながら、そこに登場する「個」をいつも見ていて、その姿に対する「情」が足を踏み出していくエネルギー源になっているように見える。
 
 それは、むのが忌み嫌う「同情の美徳」とは似て非なるものだ。喩えれば、心という鼓を強く叩いたときに響き合える人と連帯するとでも言えばいいだろうか。

 むのが革新の旗を降ろさず、新聞を休刊しているとはいえ、一人「たいまつ」を掲げている間に、社会は急速に変化をし続けてきた。
 しかし、それに流されるわけでもなく、本質は何かと問い続けて、現実を見続け、自分のいる場を掘り続けてきた。
 折々の屈折はあるにしろ、生活者としての目線に徹する姿勢、それは生き様と呼んでもいいだろう。

 福田のいう、恥と覚悟を大事にする「士(さむらい)」の精神も分からなくはないが、ひたすらに挑み続け撥ね付けられても歩みを止めない「士」もいるのではないか、と考えたりする。

 二人の、国家に対する思想、歴史観、教育観…比べれば、ずいぶんとかけ離れていることはわかる。
 その中であえて共通項を見いだそうとしたとき、一つの言葉が浮かぶ。

 寛容しない

 自分の主義を貫くとは、他に厳しさを求めなければ実るものでないことは確かだろう。

 まあ、見習うにしても、寛容を使うほどの心の広さがないことは自覚している。