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アイタタタタ、それでも…

2011年05月23日 | 読書
 私が一番信じられないのは、三十歳にも四十歳にも五十歳にもなって、人から課題を押しつけられてそれに応じる受動性だ。

 アイタタタタタタ…と思わず胸を押さえてしまう。そうきましたか保坂和志、である。
 この「寝言戯言」というエッセイは愛読しているが、今回はかなり辛辣である。

 就職試験の話題から始まって、算数の文章題における子どもたちの反応、成績そしてそれに応じる能力、進学、就職、仕事の話となる。
 文章題にでてくる「よしおくん」が誰なのか、「どうしてリンゴをあげたか」に引っかかる子が多く、「問題」までたどり着けないという件が出されている。
 確かに算数の文章題に関して、人名や設定に疑問というか妄想を抱く子はいる。学年が低ければ低いほどその率は高いが、指導者の工夫によったり、訓練によったりしながら、いわば「こういうもんだ」という収束をしているのが現状だ。

 しかしそうでなければ成立しない現実、教育課程編成はそういう能力観で組織されていることは間違いない事実である。
 もちろん、受動性のみを育てようとしている教師などどこにもいない。
ただ結果として、そう受け取れざるを得ない指導をしている教師はいるだろう。
 そしてその多くは、自分をそんなふうには考えていない。そんなふうに見つめる余裕も見いだせないこともある。
 
 人間には受動性も能動性も必要だ。どちらか片方だけで生きている人などいない。
 人によって性格が様々であるというのは、このバランスのあり方を示しているのかもしれないと思う。
 どちらにも良いことがあり、怖いことがある。
 
 保坂はこんなふうに書いている。

 受動性の怖いところは、物や事の原理・法則につこうという志向を忘れ、課題を与えてきた人が満足する回答を捜してしまうこと。

 確かにその通り。
 しかし、物や事の原理・法則につくことだけで生きていくことができるのかな、と考えたりする。そんなふうに生きて生けるのは、ある種の天才かもしくは狂人か…と凡人は考える。

 凡人は、物や事の原理・法則のいくつかを離さなければそれでいいのではないか、と言い訳じみた終わり方になってしまった。