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現場に記録がない事実

2011年05月26日 | 雑記帳
 5月26日。ある程度の年齢の秋田県人であれば、その日は印象づけられているはずだ。

 日本海中部地震が起きた日である。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E4%B8%AD%E9%83%A8%E5%9C%B0%E9%9C%87


 あれから30年近い月日が流れようとしているが、今年はまたいつもの年とは違った気持ちで振り返らざるをえないような気がしている。

 当時私は、今勤務しているこの学校(旧い校舎だったが)勤めていた。教員生活5年目。二度目の六年生担任。独身。生意気を絵にかいたような若僧だった。

 その日は何かで臨時日課だったのだろうか、まだお昼前だというのに給食準備に入っていて、私はといえば職員室で煙草をふかしながら、子どもの日記でも見ていたのだと思う。今からすると隔世の感がある。

 揺れが始まっても最初は平然としていた。学生時代に仙台に住んでいた頃は結構地震が来ていたように思うし、何年か前に宮城県沖地震も経験していたので、慣れたもんよなどと嘯いていたに違いない。
 しかし、なかなか収まらない揺れ。「どれ、やっぱり出るか」と少し不安になっている心を隠して外に出た。クラスの子どもの一人が、給食盛りつけ用の杓子を持って慌てていた姿を覚えている。
 その日はカレーだった気がする。
  
 テレビかラジオはつけていたのだと思う。にわかに慌ただしくなったのは震源が日本海で、近隣の学校が被害が出ているらしい男鹿などに遠足に出かけていたことがわかった頃からだったろうか。
 あの時ラジオで、油田のタンクが炎上し、国道が不通になっているとアナウンサーが切迫した声を出したことも覚えているが、それが誤報だとわかり、メディアからの情報に対する不信感を抱いたことも記憶にある。

 全体的に記憶はおぼろげだが、一斉避難とか集団下校にはならなかったのは確かである。
 気になって沿革や文集を見てみたが、地震という記述はどこにも探せない。それは今思うと驚くべき事実だ。

 津波によって遠足中の小学生が亡くなったことは私たちには衝撃的な出来事だった。
 しかし、安全指導の面で少なからず「想定の幅」が拡がったのは確かだったが、やはりまだまだどこか余所事のようにとらえていたのではなかったろうか。
 記録がない学校現場はそれを物語っている。

 まだ穏やかな時代が流れていたと解釈もできるが、単に能天気だっただけだと指摘できる厳然たる事実だ。