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今こそ受動の力を鍛えよう

2011年05月24日 | 読書
 昨日書いた受動性、能動性のことが頭に入っていたからか、ある雑誌のページをめくっていたら、こんな言葉が目に飛び込んできた。

 能動的「受動」の力

 これは副題として書かれていた言葉である。
 いったい何のことだと予想するだろうか。

 きく力(一)

 というタイトルである。

 ああそうかと、簡単に結び付けてはいけない。
 この「きく」というひらがなをどうみるかである。

 「きく」と言えば、「聞く」があり「聴く」もある。「聴」は「心」が入っているから心を込めて聞くことなんだよ、とありがちな説明も知っている人は多いだろう。
 また「訊く」という尋ねる場合もあるとか、「効く」とか「利く」なども…。

 能楽師の安田登という方が、「子どもの『五感』が生きる教育」と題して連載しているこの論考で、「きく」に一番近い意味の漢字として取り上げられるのは、なんとこの漢字なのである。

 

 筆者は「観」の語源から「詳らかに見る」という基本の意味を取り出し、「降神を待ち、神意を問う」という複層的なイメージも含むという。
 こう書いてくると、ある言葉が近づいてくる。

 「観音」、「観世音」である。

 観音とは「音を観る」こと、つまり「きく」という意味が含まれるといえる。
 「観」とは「見る」であり「聞く」でもあると解釈される。

 「見る的な聞(聴)く」、すなわち能動的「受動」が、観音様の「観」なのだ。聞こえてくる声を聞くだけでなく、聞こえない声も聞こうとする能動性を持つ聞く、それが「観」だ。

 「きく」という行為は、受動的であることは確かだが、そこには深い世界がある。
 この論考にある「模倣神経」の存在、「思い出」という言葉にみられる受動的な反応の不思議さ…「きく」行為とは、なんと重要であろうか。

 さて、授業中のこどものつぶやきを逃さないこと、その大切さは誰しもが言う。
 しかし、私も含めて教員は「はなす」練習等は比較的行っていても、「きく」練習はなかなか意識しないし、出来ないでいる。
 能動的に観る…見る、きくことを続けていかないと、単なる狭い受動力しか持てなくなる。意図的な研修も必須だ。

 教師よ、今こそ受動の力を鍛えよう…いい結論ではないか。