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温度差の自覚と慎重さ

2011年07月13日 | 読書
 『ちくま』の7月号は読み応えがあった。

 いずれも震災関連なのだが、まず巻頭随筆「テレビ幻魔館」の佐野眞一の文章がいつもに増して熱い。
 「原発事故の温度差」と題されたそれは、関西地区でのエピソード、そして沖縄問題との比較を取り上げる。
 連日、多量の震災・原発報道がされている現状にはあるが、確かにその受けとめ方、行動に「温度差」があり、それは歴史的な背景を探れば深く見えてくることもある。

 佐野はこう書いている。

 人間は自分の生活環境からしか物事を判断できない愚かな動物である。それは、今回の原発事故で私たちが最も学ばなければならないことだったはずである。

 なぜ学べなかったのか。
 そこにはいろいろな理由が考えられるが、やはり思考停止の世界に慣れきったということがある。
 その意味では多少地面が揺さぶられた程度で、人は変わることなどできない。

 
 「寝言戯言」の連載で、保坂和志も復興と原発を取り上げた。

 結論や答だけをほしがる受け身の思考停止状態が日本をこうしたのだ。

 原発問題はやはり象徴的だ。

 かのオシムは、その著書で「日本人は、すべてが整備され自然に解決されていくことに慣れてしまっている」「日本では既に全てが解決されている、だから、人々は全てが解決されることに慣れてしまった」と語った。
 しかし、実は何も「解決」していないということに気づいている日本人は多く、それを閉塞感といった言葉で括ってしまい、見過ごしてきたのが現実ではないか。

 保坂はこう書く。

 ただはっきりしているのは、老朽化したソ連邦がチェルノブイリによって崩壊したように、日本もフクシマによって一度しっかり壊れなければならない。

 それはけして国や組織だけを示しているだけではあるまい。
 正直にいえば、怖いことだが、受けとめなければいけない現実なのだと思う。


 こうした大局的な見方以上に、心に残ったのが、井上理津子というライターの書いた現地ルポ「被災地に本を送る」である。

 知人の塾経営者から依頼され、気仙沼へ本、参考書などを送る活動を始めた筆者の生の現実が詳細に書かれている。
 活動の過程、そこに関わる人々の様子、さらに現地へ赴いて見聞きしたこと。その活動が広がりを見せたから、また一定の成果?を上げたように見えるからこそ、受け取った側の本音は、厳しい。

 「参考書などに関しては、ある意味、善意を示したい人たちの気持ちを満たしてあげるために、僕たちは受け取った側面もあったと思う」

 こういう現実はあるだろうと予想していたが、やはりかと思う。

 わずかな義援金以外何事もできていない自分への言い訳としてではなく、慎重さや温度差の自覚を持って、この後の行動を探している。