すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

経験を盗むための条件

2011年07月10日 | 読書
 この本は以前文庫化したものを読んでいるはず
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/8c0ef5a760e27965d6f314d396fb4bab

 とわかっていても、105円だものと迷わず手にとったのが

 『経験を盗め』(糸井重里 中央公論新社)

 「食べ物のお話」から「祭りのお話」まで全18編、糸井を含めた三人、鼎談という形で話が繰り広げられる。

 ああ確かに読んだと思う回があれば、ちょっと記憶にない回もありで(文庫版は確か何冊かに分けられていたので、読んでいないのが確かにあった)十分に楽しめた。
 稀代の聞き手である糸井と、二人の専門家(というより、こだわりの人)との組み合わせが面白くないわけがなく、繰り返し読むのに価値ある一冊だと思う。

 個々の内容はともかく、改めてこの題名が気になる。

 つまり、経験は盗めるものなのか。

 「盗む=自分のものにする」という解釈でいいと思うが、他者の経験を自分のものにするということは、どういうことか。
 知識を得るという意味も当然含まれるのだろうが、それ以上の段階を指している表現だと思う。

 「口上」と称した前書きに糸井はこう書く。

 さまざまな人々にお会いして、「へえ!」とか「ほう!」とか言っている瞬間瞬間に、ぼくの気持ちは語り手に共振して、彼の経験が「我がこと」のように身体にしみていくのだ。


 共振、身体にしみていく…こうしたいわば単なる理解を超えた受けとめ方は、そんなに簡単にできるものかと思う。

 ものぐさで体力もない自分がエベレスト登山をした人の経験を聴いた場合、海や魚などに全く興味がない人が年老いた漁師の話を聴いた場合…いろいろ考えられるだろうが、もし「盗む」ことができるとすれば、それは聞き手となる者には結構な条件が必要ではないか、そんな気がする。

 第一に、自分に共振できる何か別の経験がある場合ではないか。
 仕事や趣味などを通じて、自分が突きつめた世界のなかで得たこと、感じたこと、意識されずにいたが実は心の底にあったこと…それに触れて共振を呼び起こすのではないか。

 次に、聴く耳を持つことの重要性である。それは姿勢でもあり、技術でもある。その経験の持つ普遍的な部分、もしくは際立つ特異性を引き出してくるという訊きかたができるかという点である。少なくとも、自らの範囲に引っかかりそうな糸口を見つけるところまでは行きたい。

 そのために、頷いたり、盛り上げたり、揺さぶったりと、絶妙とも言うべき技能を糸井は持っている。
 
 こう書いてくると、当然自分の仕事や興味ある分野のなかで、そんなことが出来ているかと自問が始まる。
 それは今の自分にかなり大事なことに思える。
 ちょっと腰を据えて取り組んでみたい気がなっている。