「楽観」という言葉を使うときは、どこかその考え方の甘さを指摘するようなイメージがある。
「事態を楽観視しているのではないか」「君は楽観的な見方をする人だね」のように…。
確かに辞書においても「好都合に考える」「希望的な見通しをつける」という表現があり、ある意味ではそうしたニュアンスの強さが感じられる。
しかし「楽しく観る」という本来のあり方は、実は望ましく、人生かくありたい、何より毎日を「上機嫌」で過ごせるではないか、そんなふうにとらえられるだろう。
『最後の授業~ぼくの命があるうちに』(ランディ・パウシュ ランダムハウス講談社)
2007年秋に、カーネギーメロン大学の講堂で行われたランディ・パウシュの講義のことは、この本を手にとるまで知らなかった。読み終えて、今どうなっているかを調べたら、翌年秋にランディは死去、そしてその講義は確かにyoutubeにあり、惹きつけられるように観てしまった。
著者は「楽観の人」である。
もちろん、膵臓癌患者として余命数ヶ月と宣告されている者が、いくら強くていくら楽観的であっても、涙し苦悩し墜ち込んでいく姿は当然のようにあった。
しかし、絶望しないという一点において、生きる証しのために着実に歩むその眼差しの強さにおいて、「楽観の人」と名づけたい。
この本には、本当にたくさんの惹きつけられる言葉がある。
最後の講義のテーマが「夢をかなえる」であり、そのための心構え、処世訓、そして具体的な言動までが書かれてあるからだ。
それは、死を前にしているという現実を知っているからなのか、よけいに響きを持って伝わるといえるのかもしれない。
何も飾る必要がなく、全て経験に裏打ちされていることは、同じ字面であっても重みを感じるものだとつくづく思う。
一つだけ引用するとすれば、これだろうか。
壁がそこにあるのは、理由があるからだ。
これに続く文章も感動的であるが、おそらく「楽観の人」の語る言葉は想像できよう。
自分に引きつけて次につながる言葉を考えたとき、ふと浮かんだのは次の一言だった。
おかげさま
著者のランディにはあまり似つかわしくないだろうが、これこそ「楽観の人」になるコツ、日本人バージョンだ。そんなことに気づいた。
「事態を楽観視しているのではないか」「君は楽観的な見方をする人だね」のように…。
確かに辞書においても「好都合に考える」「希望的な見通しをつける」という表現があり、ある意味ではそうしたニュアンスの強さが感じられる。
しかし「楽しく観る」という本来のあり方は、実は望ましく、人生かくありたい、何より毎日を「上機嫌」で過ごせるではないか、そんなふうにとらえられるだろう。
『最後の授業~ぼくの命があるうちに』(ランディ・パウシュ ランダムハウス講談社)
2007年秋に、カーネギーメロン大学の講堂で行われたランディ・パウシュの講義のことは、この本を手にとるまで知らなかった。読み終えて、今どうなっているかを調べたら、翌年秋にランディは死去、そしてその講義は確かにyoutubeにあり、惹きつけられるように観てしまった。
著者は「楽観の人」である。
もちろん、膵臓癌患者として余命数ヶ月と宣告されている者が、いくら強くていくら楽観的であっても、涙し苦悩し墜ち込んでいく姿は当然のようにあった。
しかし、絶望しないという一点において、生きる証しのために着実に歩むその眼差しの強さにおいて、「楽観の人」と名づけたい。
この本には、本当にたくさんの惹きつけられる言葉がある。
最後の講義のテーマが「夢をかなえる」であり、そのための心構え、処世訓、そして具体的な言動までが書かれてあるからだ。
それは、死を前にしているという現実を知っているからなのか、よけいに響きを持って伝わるといえるのかもしれない。
何も飾る必要がなく、全て経験に裏打ちされていることは、同じ字面であっても重みを感じるものだとつくづく思う。
一つだけ引用するとすれば、これだろうか。
壁がそこにあるのは、理由があるからだ。
これに続く文章も感動的であるが、おそらく「楽観の人」の語る言葉は想像できよう。
自分に引きつけて次につながる言葉を考えたとき、ふと浮かんだのは次の一言だった。
おかげさま
著者のランディにはあまり似つかわしくないだろうが、これこそ「楽観の人」になるコツ、日本人バージョンだ。そんなことに気づいた。