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もう一度、危機感を見つめなおして

2011年10月08日 | 雑記帳
 似たようなことを数年前にも上條氏の口から聞かされた気がする。
 今の授業づくりをより大きな視野でとらえると、このような危機感があるということだ。

 いつまでも昔通りの「教科書に書いてあるような価値のあること」を「順序よく」「わかりやすく教える」教え方ばかりしていても、正直、国は沈んでいくだけだろうとおもいます。

 漠然としたそういう思いは、多くの教師の胸のどこかにあるだろうと思う。
 がしかし、日々の諸問題に煩わされている現状のなかでは、いかに教科書のことを順序よくわかりやすく教えるかに腐心することで精一杯という教員も少なくない。

 ただ、決して大袈裟ではなく、その果てにどんなことが待ちうけるか、やはり考えねばならない時代だろう。
 それは制度的な施策でこの国や地域をリードしていく人材育成を目指すといった点も欠かせないが、それ以上に、ごく普通の教室で学び育つ子がどんな力に身につけて、社会を築き生き抜くかという点に関わりあってくるのではないか。

 「学力は、幸せをつくる力」と郷土の大先輩が仰った。
 その観点で、目の前の子どもたちが生きる時代の「幸せ」はどんなイメージなのかを挙げてみることは必要かもしれない。
 しかし、ある特定のイメージを挙げるというより大事なのは、以前に比べて多種多様な姿が現れてくるということだ。

 いわば最適解・一般解のない世界、特殊解・個別解が強調されるなかで生きることは間違いない。反面、それらが自己満足の肥大に陥ることを注意深く見つめる必要はあろう。

 そうすれば、子どもたちの幸せのために自ずと養いたい力は浮かびあがってくるのではないか。
 そしてそのための手法については、けしてひと通りではないし、またそうであってはいけない。

 教える内容、育てたい力そのもの吟味と共に、具体的な教師の手法が、子どもたちに伝えるものの大きさは見過ごすことができないのである。

 全体的な視野でいえば、上條氏がいうところの「バランス」責任論、つまりは一斉型授業の見直し、指導形態の比率改善ということも当てはまる。
 ただそれと同等に、個々の教師自身の営みに自信が戻って?くることが要求されるのではないか。それこそ肝心だ。
 先日の講座で言えば「足場」の大切さということにつながる。

 上條氏はオランダの教育、教師の素晴らしさについて触れた文章(メールマガジン)で、こんな締めくくりをしている。

 自分の目でものを見、自分の頭でものを考える。

 「教育は人なり」は、やはり普遍だと思う。