火曜日に本校の1年生活科の授業研究会があった。
その授業を参観しながらそして研究協議の途中にも、もう20年も前に生活科が新設されるとき、ちょうど初めて一年生を担任することになった自分には、いくつか思い浮かんでくることがあった。
教科書のこと、動物飼育のことといった内容面と同時にその学習活動のあり方が大きく問われた時期だった。
つまり「座学からの脱却」というような言葉で、かの中野某先生が盛んにその自由度の高さを力説したことを覚えている。
その結果がどうだったのか、様々な研究はされたのだと思うが、明確な方向は示されたのだったろうか。不勉強ゆえに見逃しているかもしれないが、何か「高学年になっても授業がしにくくなった」といった印象的な言辞だけが流布されたような気もする。
昨日の木曜日、東北福祉大の上條晴夫先生をお迎えしての講演会を実施した。
氏は、授業づくりネットワークが現在推進している「学びのしかけ」のリーダーである。そこで語られる「『教えやすさ』と『学びやすさ』」に注目している。
上條氏は「黙って」「座って」を従来型の授業、そして教師の「教えやすさ」をつくるルールだと言う。
もちろん、それを全面的に否定しているわけではない。しかしこの「二大ルール」の堅固さをどうにか突き崩したいという思いは強いようである。
生活科の新設も、総合的な学習の時間の創設も、活動においてはこの二大ルールを揺らがせるまでは至らなかったということだろうか。
年代や個人の性格にもよると思うが、教師は授業を通じて自己表現したいという気持ちが強いのではないかと仮定してみる。少なくとも自分にはその要素がある。
従来型の授業を続けているということは、その表現のバリェーションが少ないのだと言いきってしまうことができないだろうか。
印象的な場面がある。
教育技術学会だったろうか、確か秋田で催された研修会だった。法則化運動が盛り上がっていた時期である。
地元で著名な教師が国語の授業をした。その詳細は思い出せないが、導入で教師がしたことは強烈だった。
教師に常に正対させるということを、自分の場所を変えながら練習させたのである。
この意図は…紛れもなく「私を見ろ、私の話をしっかり聴くことが大切だ」でしかない。
若干の怖さも感じながら、その堂々たる自信を身につけて子どもに向きあいたいという気持ちもないわけではなかった。
その授業の良し悪しはともかく、教師の持つそのエネルギーは確実に伝わるし、他者とのコミュニケーション以上に学ぶ意欲が引き出され、活動的な場になる可能性は大いにある。
しかし、しかし、という思いは残る。
「黙って」「座って」を子どもにルールとして示し徹底させる理由は粗く二つあると考える
一つは「人の話は口をはさまず聞く」という社会的なマナーや一般生活の中で頻度が比較的高い状況に対応する力を身につけるということ。
そして、二つ目はその状態が教えるべき価値や内容を効率的に、もしくは意図的に伝えやすいとされていること。
後者について、本当にその状態がいいかどうか吟味することが求められているのである。惰性的にその形態を使ってはいないだろうか。
「黙って」「座って」が安定した形で汎用性が高いことは確かに認めるが、その吟味に向かわなければ、授業者の自己表現のバリェーションはいつまでも拡がらない。
その授業を参観しながらそして研究協議の途中にも、もう20年も前に生活科が新設されるとき、ちょうど初めて一年生を担任することになった自分には、いくつか思い浮かんでくることがあった。
教科書のこと、動物飼育のことといった内容面と同時にその学習活動のあり方が大きく問われた時期だった。
つまり「座学からの脱却」というような言葉で、かの中野某先生が盛んにその自由度の高さを力説したことを覚えている。
その結果がどうだったのか、様々な研究はされたのだと思うが、明確な方向は示されたのだったろうか。不勉強ゆえに見逃しているかもしれないが、何か「高学年になっても授業がしにくくなった」といった印象的な言辞だけが流布されたような気もする。
昨日の木曜日、東北福祉大の上條晴夫先生をお迎えしての講演会を実施した。
氏は、授業づくりネットワークが現在推進している「学びのしかけ」のリーダーである。そこで語られる「『教えやすさ』と『学びやすさ』」に注目している。
上條氏は「黙って」「座って」を従来型の授業、そして教師の「教えやすさ」をつくるルールだと言う。
もちろん、それを全面的に否定しているわけではない。しかしこの「二大ルール」の堅固さをどうにか突き崩したいという思いは強いようである。
生活科の新設も、総合的な学習の時間の創設も、活動においてはこの二大ルールを揺らがせるまでは至らなかったということだろうか。
年代や個人の性格にもよると思うが、教師は授業を通じて自己表現したいという気持ちが強いのではないかと仮定してみる。少なくとも自分にはその要素がある。
従来型の授業を続けているということは、その表現のバリェーションが少ないのだと言いきってしまうことができないだろうか。
印象的な場面がある。
教育技術学会だったろうか、確か秋田で催された研修会だった。法則化運動が盛り上がっていた時期である。
地元で著名な教師が国語の授業をした。その詳細は思い出せないが、導入で教師がしたことは強烈だった。
教師に常に正対させるということを、自分の場所を変えながら練習させたのである。
この意図は…紛れもなく「私を見ろ、私の話をしっかり聴くことが大切だ」でしかない。
若干の怖さも感じながら、その堂々たる自信を身につけて子どもに向きあいたいという気持ちもないわけではなかった。
その授業の良し悪しはともかく、教師の持つそのエネルギーは確実に伝わるし、他者とのコミュニケーション以上に学ぶ意欲が引き出され、活動的な場になる可能性は大いにある。
しかし、しかし、という思いは残る。
「黙って」「座って」を子どもにルールとして示し徹底させる理由は粗く二つあると考える
一つは「人の話は口をはさまず聞く」という社会的なマナーや一般生活の中で頻度が比較的高い状況に対応する力を身につけるということ。
そして、二つ目はその状態が教えるべき価値や内容を効率的に、もしくは意図的に伝えやすいとされていること。
後者について、本当にその状態がいいかどうか吟味することが求められているのである。惰性的にその形態を使ってはいないだろうか。
「黙って」「座って」が安定した形で汎用性が高いことは確かに認めるが、その吟味に向かわなければ、授業者の自己表現のバリェーションはいつまでも拡がらない。