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「つけたい」と一括りすること

2011年10月10日 | 雑記帳
 とある会で、知り合いに尋ねられた。

 「『つけたい力』ってどういうこと?」

 話題は、つけたい力が何かということでなく、「つけたい」という表現そのものの意味するところらしい。
 学習指導案にもよく書かれている表現だし、資料や冊子などにも出てくるような気がする。それでもそんなに以前から使われていたっけかなあ…。
  
 単純に考えると、学校の場で「つけたい」というと、「教えたい」「高めたい」「育てたい」と同義だろうし、「子どもに、身につけさせたい」と言い替えてもいいことだろう。
 なんとなく口語的な感覚で使っているのかもしれない。

 と、そんな軽口めいた話をした。

 一人になって、いや、しかし待てよ、と少し考える。
 「つけたい」は「つけさせたい」とは違う
 ここは学校によくありがちな、主客転倒?混合か?
 また「教えたい」と「育てたい」という「教育」の本道を、「つけたい」なんていう言葉と一緒にしていいのか、という気になってくる。

 「つけたい力」の主語や対象を補えば、「教師(学校)が、子どもに、つけたい力」となる。
 この場合の「つける」とは、広辞苑ではここの意味になるのだろうか。

 ④身にまといつける
 (1)身にまとう
 (2)わがものとする


 どうもしっくりこない。

 明鏡国語辞典を調べる。この意味は結構妥当かもしれない。

 ⑤(本体に付加する形で)そのものの状態や性質を新たに生じさせる。また増強させた状態で生じさせる

 それにしても改めて「つける」を調べ直すと、「つけたい力」という表現は間違ってはいないが、あまりふさわしいとは言えない気がしてきた。

 一つには、「つけたい」が「力」と結びつくと、やはり自分や自分側からの向きの言葉だととらえられる。教師の主導性が強くイメージされる。つけるという動作に関わるのだろう。

 もう一つは、明鏡の意味と結びつけて、もっと細かく検討されるべきという思いがある。つまり「新しい」か「継続的」かを明確にして語るべきではないか、と考える。

 「つけたい」で一括りにすることは、怠慢と言えるかもしれない。