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うまい授業、いい授業

2011年10月31日 | 雑記帳
 学習発表会後に持った職場の小宴で、昔話をしていたら授業のことが話題になった。
 
 ホームページに書いたことのあるエピソードの場面
(「あなたねえ、もしかしたら、いい授業をしたと思っているんじゃないですか。」の巻)
 http://homepage3.nifty.com/spring21/CCP058.html
 その教室で自分は授業をうけていたという現在の同僚がいて、時の流れを感じた。あの時はこんなことをして…と話が弾んだ。

 そんな流れの中で「うまい授業といい授業とはどう違うんですかねえ」と問いかけられて、ああそんな自問はもう何年もしていなかったかもしれないと思いながら話し始めたら、宴席ゆえの話題遮断となってしまった。

 酔いが残る翌日には、何も思い出さなかったが、今日になって、自分はどう答えようとしていたのか、少し気になった。

 うまい授業といい授業

 「うまい」と形容されれば、それは参観者からの視点なのだと思う。
 「いい」はもっと範囲が広がる。授業の対象となる児童生徒にとって「いい」が中心となる。それを参観者が見取ってそう評価するときに使うと言えるだろう。
 もちろん、そう考えると「いい授業」を目指すに決まっているが、きっとこのような問いが生まれるということは、「うまい授業が必ずしもいい授業とは限らない」という考えがあるからだろう。
 私もそう思う。

 見るに鮮やかで、しっかりと組み立てられ、すきの感じられない授業を参観することがある。
 子どもたちも鍛えられている。
 その意味では文句のつけようがなく、まさにうまい授業である。しかしまた何か物足りなさを感ずる時があるものである。

 それは何か。
 この一時間内での学びがあったにしろ、その深さが問われるのかもしれない、学級や個の可能性が引き出されたかどうかを見ているのかもしれない…「向上的変容」と括られることだ。(自分でどう範囲づけているか、この点は明確にしたい)

 その過程で活動がぎくしゃくすることもあるし、沈黙が続くこともある。むしろそれは当然であり、教材や活動を巡って授業者と子どもの受けとめ方が一致すると考えることに無理があるだろう。
 だとすれば、子どもの反応や思考の流れをどう調整していくか、そこにこだわりぬく授業であれば、参観者からは「うまい」と評価されるのは稀なことなのかもしれない。

 と、ここまで書いてみて、どこか文学的な匂いが残ってしまうことに軽いイラつきを覚えている自分がいて、結局、宴席での話題レベルだったなあと着地してしまう。