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判断する習慣を萎ませない

2012年10月02日 | 雑記帳
 年度後半初日の月曜は、台風通過によって登校が2時間遅れとなった。
 前日の日曜午後に教委から指示があり全市一斉の対応だった。
 一学期に同じような台風の進路予想があり、臨時休業を決めたら天候が回復して肩すかしをくらったような日があったので、それに比べれば妥当な判断で、混乱なく経過したといってよかろう。

 それにしても安全確保が第一とされる機関としてはやむを得ない処置と思いつつ、昨今のこうした対応が迫られる案件に対してもう少し弾力的にできないものかと、ついつい思ってしまう。

 結局それは、昔のように?学校が単独で成り立たなくなってしまっている証左でもある。
 例えばスクールバスのこと、例えば給食のこと、様々な機関や各家庭に影響があることが考えられ、常に早い決断が要求される。
 それぞれのつながりが密である今、それは結果的に右倣え、前例踏襲の思考が強まることと言ってよい。

 また、例えばこうした緊急?の場合の連絡体制など、震災以降だいぶ検討され整備されてきたように感じるが、まだ困難な点は残る。
 実際に本校のような小規模であっても家庭状況は多様であり、時間帯による動静はばらばらであり、今回の連絡も計画どおりに進まなかった箇所は少なくなかった。

 もっとネット状況の進歩や普及が進めば、こうしたこともスムーズに運ぶことも考えられるだろう。
 それはきっと喜ぶべきことなのだろう。
 しかし、そんな体制が実現している場面(上で決められたことが一律に迅速に遺漏なく連絡され、滞ることなく伝わる)は、生死にかかわるような緊急時でいいのではないかな、という私の思いはくすぶり続ける。

 こんな方法を多くの場合に適用することは、結局人に身を任せることを常態化してしまうことにならないか。
 判断する側は混乱させてはならない配慮はすべきだが、もっとああだこうだと意見を交わしあう時間も必要だ。

 結論はどうであれ、その過程を、どんなふうに決まったかを大切にする、具体的には話し合いを保障すること…そういう習慣を萎ませてはいけない。

 危機管理という言葉が肥大して、非常時と平常時の区分線が動いている気がしている。
 それが一人一人の判断力の劣化につながらないか。