すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

理解から表現が生まれる

2012年10月10日 | 読書
 勤務校では、近隣の養護学校との定期的な交流を進めている。
 ずいぶんと以前から継続されていて、子どもたちも抵抗なく受け入れている。今年度初めてその交流を目の当たりにして、いろいろと考えることが多い。子ども以上に刺激を受けているような気もする。

 さて、今年になってからいわゆる障害児教育に関する本は読んでいなかったこともあり、先日、青森の駒井先生のブログで紹介されていた本を購読してみた。

 『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』(向野幾世 扶桑社)

 復刊された本であり、実際には30年以上前の出来事となる。その間に障害児教育を取り巻く環境整備は、大きな前進があったが、著者のような方々が多くの地方にあって、真摯な努力を続けたことを改めて認識した。

 この本の中心となる「やっちゃん」の感動的な詩が出来上がる陰には、当事者である母親をはじめ、多くの方の支えがある。そしてその作品は、やっちゃんと著者たちとの心の通い合いの結実であることは間違いない。

 言語活動が不自由な子の作品が多くあり、それらは、私の大きな関心の一つである、どんなふうに最終的な言語化をするかという問いを膨らましてくれた。
 その問いは養護学校との交流活動の実際において感じていたことだった。
 感想発表の場などで、児童の代弁をする職員の姿を見ながら、どのようにして読み取るのか、正直見えてこなかったからだ。

 この本を読みながら、当然といえば当然ながら、いくつか気づく。

 一つには専門的な技術を駆使して、仕草や表情の特徴を読み取ること。
 もう一つは、その子の家庭環境や関わりの様子、願いなどを、まるごと理解することに努めようという気持ちである。

 後者が伝わってくる。
 「理解があるから表現が生まれる」という姿の典型を見る思いだ。
 たぶんこれは、私たちが通常学級で表現指導などをする場合も同じではないかと思いめぐらす。

 それにしても、「やっちゃん」の詩に限らず、心打たれる作品が多かった。

 言葉に行きつくまでの「距離」が長いからだろうか、と想像してみる。
 また、単にどんな言葉を選ぶかということではなくて、自分の心、思いがどうしようもなく重く辛くなっていて、それを抱えて言葉にたどり着くための「時間」が長いからだろうか。

 安易に手に取り、選んだりできることの軽さは、言葉そのものに乗り移ってしまう。
 そう感じつつ過ごしている自分のどうしようもなさに,しばし沈黙。