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「考えない」流儀

2012年10月23日 | 読書
 きっと「考えない」流儀というものがある。
 そんなことを、ふと思った。

 『考えない人』(宮沢章夫 新潮文庫)

 新潮社の季刊誌『考える人』の連載を中心に構成された、ミニエッセイ集である。
 たまにその季刊誌を買うので、既に読んだ文章もあった。他の雑誌やウェブマガジンなどの文章も同じような文体で書かれてあり、こりゃあ受けつけないなと感じる人も多いことだろうと思う。

 見方によっては「無内容」である。
 なにしろ「考えない」ということについて、延々と書き連ねているわけで、その無理やり感は半端なものではないだろう。
 「考えない」ことについて「考えて」書くわけだから、本当に「考えない」ことを突きつめようとしたら、それは矛盾しているわけで、結果的にはその矛盾さえ、考えない。
 だから、いいのだ。ということになるのか。

 結局、俯瞰ということだろうか。
 どこまでも事実とそれに伴う反応を書き記し、その「考えなさ」について解説していくということは、上へ上へと視点の位置は上がっていく。このまま上がったらどこまでいくのか、というくらいに上がる。(いや,もしかしたら横へ横へか?)

 ところがその文章の多くの場合、始まりは反対で虫瞰的といっていい。
 じっくり見てあれこれ考えることから、考えないが始まる。

 目を付けやすいのは、もちろん言語。

 例えば、今私が手にしたティシュボックスだ。
 側面に書かれてある次の文字。

 プレミアムに
 しっとり


 ブルー系の箱に白文字が浮き立つ。
 ティシュである。手に入りにくい意味でのプレミアムではないだろう。
 何かおまけつきでもないようだ。
 ホントにおまけがついていれば、人は買うのではないか。
 やはり、考えていない。

 この言葉のかかり方からすると、「しっとり」がプレミアムなのか。
 つまり、しっとりとしたおまけがついているティシュだ。
 しかし、しっとりとは湿っている、濡れていることだから、しっとりが良ければ拭く必要がない。ティシュは用無しだ。
 考えていない宣伝文句だ。

 さらに、である。
 その宣伝コピーの上には、ちょっと小さくデザイン枠に入った次の文字が。

 さらに

 えっ、と思う。

 さらに プレミアムに しっとり

 何をそれ以上求めているのか。考えていない。
 どこまで、しっとりを追求するというのか。
 単に「じっとり」の言い換えではないか。

 そうでないわけを想像する。初めて使うときに、上蓋を切り取り、最初の一枚をめくり出そうと指を差し入れる。その瞬間から、しっとりである。
 さらにしっとりするというからには、指が吸い込まれそうな感覚である。

 指から手、手から腕、腕から胸へ、そして上半身全体が、ティシュボックスの中にするすると吸い込まれていく。えも言われぬ快感である。だから、「プレミアムに しっとり」なのである。

 ああ、そんな恐ろしい想像が、一つの言葉によって始まってしまう。

 「考えない」流儀とは、結局のところ、虫の眼に始まり、少し羽ばたいて上空へ向かおうとするときに、誤解と妄想をいかに広げ、自分を楽しくする究極の遊びである。

 そうでしょ、考えない人、章夫さん。