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三昧力に揺さぶられる

2012年10月26日 | 読書
 また「○○力」かよお…という気持ちも少しあったが、これは新鮮な受け止め方ができた。

 「三昧力」(玄侑宗久 PHP文芸文庫)

 まず「ざんまいりょく」ではなくて、「ざんまいりき」である。
 それから、「三昧」は、あの「○○三昧」だが、その三昧には深い意味があるのである。
 「文庫版のための前書き」に、こう記されている。

 日本人は本来「さんまい」と読んだ言葉を、上に何かがくることを想定して「ざんまい」と濁らせた。それによって、没頭する事柄はなんでもよくなり、とにかく普段の「私」がいなくなることを「三昧」という言葉で讃えたのである。

 これは、2000年前後からはやり始めた「○○力(りょく)」という考えとは一線を画すのかもしれない。
 例えば授業力、質問力、コメント力…
 「○○力」の多くは、どこか一点突破的に、その力を見直し、強め、目的達成を図ることが主眼となっている。

 「三昧」はそういう視点ではなく、広がりの要素を持つ言葉だ。
 禅の言葉として「無心」「無我」に近い要素があるのかもしれない。
 多くの三昧できることを持ち、幼児のごとく柔軟な心を持とう、というのが主眼である。かくありたいと思わせられた。


 内容としては、様々な媒体で書いたエッセイ集であり、話題も豊富だ。

 教育を語った箇所も興味深い。
 「ネコとヒトの教育」と題されたページでは、その比較から教育内容について語っている。
 ヒトという動物の、そして日本という民族の、必須な教育項目が何なのか揺れ動いている現状を憂い、こう結んでいる。

 学校での教育内容にしても家庭での躾にしても、自信をもってその項目を特定することこそ急務ではないだろうか。

 幾度も他から揺さぶられてきた身としては、もはや「ここだけは」と自分で確信の持てる部分を絞り込んでいくしかないと考える。

 少年犯罪について語った頁も必読だと思う。
 教育現場にいる私たちに背筋をぴんと伸ばして対峙できるか、を問いかけているように読み取った。