すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

話を練り上げる芯

2012年10月16日 | 雑記帳
 ある講演を聴いた。
 講師のキャリアをみると役職も重ねてあるし、各地に招かれたりしている方である。
 かつて一回お話を聴いたことはあるが、印象が薄い。
 なぜ、覚えていなかったのか、そのわけがこの2回目でわかった気がする。

 1ページびっしりにレジュメが準備されていた。
 内容は、テーマにそって確かに大事な間違いのないことだった。
 発声発音も悪くはなく、強調のための抑揚も感じられる話しぶり。
 順序もほぼ予定どおり、その中身によって軽重はつけられていたが、80分きっちりで最後にたどり着いた。

 それなのに、なぜ響かないのか。

 圧倒的に少ない具体的なエピソードである。
 誰しも経験するような、見聞きするような一般的な例示という形は当然示されるが、個人的な例がほとんど見られない。

 ということは、実感が伝わってこない。
 従って、示された大事な言葉も「ご説ごもっとも」という程度?で止まってしまう。
 実感あるエピソード。
 やはり聴かせる話はここが芯になる。

 と、多くの人が知っていることを今更のように書いた。

 ただ、今回の講師の方も具体的なエピソードは持っているのである。
 それは質疑応答の時に垣間見られた。特に少し余った時間に「最後にちょっと話したい」と付け加えた、現役教師時代のある授業のひとコマは、実に鮮やかに伝わってきた。

 与えられたテーマとの相違はあっても、その場面を切り口に持ってくることはいくらでも出来たはず…話を練り上げるとはそういうことだろう。

 解説者のつもりで記したわけではない。我が身に生かしたい。生かせるはずだ、という願望である。