『ベラボーな生活 ~禅道場の「非常識」な日々』(玄侑宗久 朝日新聞社)
人間ドックの「患者文庫」の書棚に並べられていたので,先日読んだ『三昧力』つながりで手にとってみた。
著者が若い頃に京都の禅道場に入門した時の思い出をエッセイとして綴った内容である。
「はじめに」に記された一文に,ほおぅと惹きこまれる。
今思い出しても最もベラボーと感じるのは,あそこは「インフォームド・コンセント」なるものが全くないことかもしれない。
禅道場とはそうした処であろうことは予想できるが,ふと自分たちの暮らす日常も振り返させられる一文だ。
つまり,別にドックに来たからそう思うわけではないが,なにかインフォームド・コンセントの波があたりかまわずじわじわ寄せて来ている感覚を持つのは私だけではないだろう。
案の定,私たちの仕事にもその目は向けられていた。
病院だけでなく,学校教育においてもそうかもしれない。途轍もない目標を掲げるのではなく,控えめで現実的な目標を立て,そこに向かってちょぼちょぼ着実に進もうというのが堅実な教育らしいのである。
この「はじめに」の文章のキーワードは「奇跡を信じる」だが,その言葉と学校教育の整合性や適合性はともかく,実はどこか自分が真底に持ちたいと願っていることが見透かされたようで,心に残る。
さて,本編は半分以上が食べ物のことで,いかに修業が禁欲的な生活であるかがアピールされ,楽しみとなった「食」の印象深さが強調されている。
しかし,そういう中で時折語られるエピソードのもつ,その「真理」に妙に納得させられた。
「患者文庫」に戻さなくてはいけない本なので,三つだけ書き留めておいた。
禅門では「親切」でなく,「深切」と言う。二度と忘れないように,しかも説明すぎずに教え込むのが大事なのだ。
エピソードの詳しくは引用しないが,事前にあれこれ予告したり注意したりせずに,その事実を見て,体感して印象づける大切さが説かれている。
道場では「好きなことをする」のではなく,「することを好きになる」能力を養うのである。
自分とは何かを考えさせられる。
そして,座禅中に耳に入る音について書かれた項目では,結局人間は,あるがままというけれど,様々な感覚器官は選択的に情報を感受しているのだという仏教の教えが記されている。こんなふうに語られている。
人間は客観性など望むべくもなく,すでに観察自体が恣意的であり,それによって保たれているのが,この自分なのである。
仏教徒ではないが,思わず合掌したくなる一節である。
人間ドックの「患者文庫」の書棚に並べられていたので,先日読んだ『三昧力』つながりで手にとってみた。
著者が若い頃に京都の禅道場に入門した時の思い出をエッセイとして綴った内容である。
「はじめに」に記された一文に,ほおぅと惹きこまれる。
今思い出しても最もベラボーと感じるのは,あそこは「インフォームド・コンセント」なるものが全くないことかもしれない。
禅道場とはそうした処であろうことは予想できるが,ふと自分たちの暮らす日常も振り返させられる一文だ。
つまり,別にドックに来たからそう思うわけではないが,なにかインフォームド・コンセントの波があたりかまわずじわじわ寄せて来ている感覚を持つのは私だけではないだろう。
案の定,私たちの仕事にもその目は向けられていた。
病院だけでなく,学校教育においてもそうかもしれない。途轍もない目標を掲げるのではなく,控えめで現実的な目標を立て,そこに向かってちょぼちょぼ着実に進もうというのが堅実な教育らしいのである。
この「はじめに」の文章のキーワードは「奇跡を信じる」だが,その言葉と学校教育の整合性や適合性はともかく,実はどこか自分が真底に持ちたいと願っていることが見透かされたようで,心に残る。
さて,本編は半分以上が食べ物のことで,いかに修業が禁欲的な生活であるかがアピールされ,楽しみとなった「食」の印象深さが強調されている。
しかし,そういう中で時折語られるエピソードのもつ,その「真理」に妙に納得させられた。
「患者文庫」に戻さなくてはいけない本なので,三つだけ書き留めておいた。
禅門では「親切」でなく,「深切」と言う。二度と忘れないように,しかも説明すぎずに教え込むのが大事なのだ。
エピソードの詳しくは引用しないが,事前にあれこれ予告したり注意したりせずに,その事実を見て,体感して印象づける大切さが説かれている。
道場では「好きなことをする」のではなく,「することを好きになる」能力を養うのである。
自分とは何かを考えさせられる。
そして,座禅中に耳に入る音について書かれた項目では,結局人間は,あるがままというけれど,様々な感覚器官は選択的に情報を感受しているのだという仏教の教えが記されている。こんなふうに語られている。
人間は客観性など望むべくもなく,すでに観察自体が恣意的であり,それによって保たれているのが,この自分なのである。
仏教徒ではないが,思わず合掌したくなる一節である。