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「分人」を語る自分もまた分人

2012年10月11日 | 読書
 『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎 講談社現代新書

 著者が芥川賞をとって少し経った頃に、その小説を読もうとしたが葉が立たなかった。正直、その難しい言葉の連続に辟易したことを覚えている。
 その後、IT関係の対談本を一冊読んだと思う。
 あまり視野に入っていなかった作家だが、今回手にとったこの本は、いかにも新書らしく、私のような者にもするっと入ってきた。

 著者の「提案」は、面白い。
 かなり、使える。
 大雑把に言ってしまえば、こうなるだろう。

 自分という存在の見方として「分人」という単位を導入することによって、生き方や人間関係を見つめ直そう

 これに類似しているように見える考えは、かなり頻繁に流布されている。
 例えば「人には様々な面がある」「いくつものキャラを持っているのが普通」「性格の多様性」…。

 しかし、そのような論を聞いても、なかなか消せなかったのは、「本当の自分はちがう、どこかに必ずいる」とか「本当の自分には一番価値がある」とかいう、思い込みではなかったか。

 こうした思考や感情は蔓延しているし、それをテーマに書かれた文学作品等はずいぶんとあるように思う。今、自分のお気に入りの作家の名前も思い浮かんだ。

 それに対して平野が唱える「分人(主義)」は、訳語としての「個人」の成立から紐解き、個人という思想が現代に合わないものだとする。

 人はいくつもの「分人」によって構成される、そしてその価値に優劣はないが、自分の好きな分人を拡げていくことで、この複雑な社会に対応していけるのではないか、という考えは、肩の力をふっと弛めてくれる。
 また、人との関わりの煩雑さに滅入る心身の処方箋ともなるだろう。

 ネット、教育、恋愛…身の回りの出来事も含め、わかりやすい例示のある著だと思う。
 シンプルだが、骨太な提案だ。

 自分自身はもちろん、他者の見方つまり他者の分人を想像してみることは、私たちに一回り大きな余裕のある日常をもたらすように思った。