すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

地味な道しかないと思い至る

2012年10月03日 | 読書
 「1981年3月初版刊」とあるので、もう30年以上前の著作である。

 『話せない子・話さない子の指導』(野口芳宏 明治図書)

 「話すこと・聞くこと」をテーマにした校内研修が予定されていたので、この機会に再読してみようと思った。

 前半の第三章「話す力の低い子ども」までは、主として「話すこと」の本質論と、子どもの理解、話せない要因が述べられているのだが、実にわかりやすく、整理されていて、納得がいった。
 これを図化したらこうなるのだろうか、図化してみたいという気持ちや意欲が浮かぶほど、明快な書物だった。

 まず「まえがき」には、「指導法」でなく「指導」にした書名の意図がこう記される。

 技術や方法というものは、所詮は目的、目標に従属するものに過ぎないのです。ですから、目的や目標を確かにとらえる努力をせずに、単に方法や技術だけを身につけたところで本物の教育にならないわけです。

 今も一貫して主張なされるその言葉は、まさに揺らがない本質、原点である。

 結局「話す・聞く」に関して、どんな目的・目標を持っているのかと自問し、ある一定の方向を言語化していない限り、非常に頼りないものになる。

 では、自分は持っているか。

 これは一つ、はっきりしていることがある。

 「言いたいことを言うのではなく、言うべきことを言う子どもを育てる」

 ずいぶん前に野口先生からお聴きした言葉だ。
 自己表現がもてはやされ、活発に発言する子が増えてはきているが、それが大事なことか、必要なことかの吟味なしに、ただ外言化されていいものだろうか。
 なんでも思いついたら喋るという行為は、仮に一時期限定的な目標のもとに推奨されたとしても、結局は深い思慮、洞察、内省等に基づいた言葉こそがより価値が高いものだ。

 そういう価値ある内容を、対象に向かって音声言語によって伝え、それを受けてかかわり合ったり、高め合ったりする言語行為が「話す・聞く」であろう。
 言ってみれば「読み書き」よりも、身近な「話す・聞く」を指導対象とする困難さは、その辺りにもある。

 心構えや態度と切り離せないことを承知しつつ、道具観という側面に重きをおいて、「質問」トレーニング的なことを提案してみた。
 しかし、技術を高めながら、真の意味での話す力・聞く力を身につけさせるには、その活動を通して教師の「話す・聞く」を十分に発揮し、そして子どもの良き所を誉め、直すべき所を指摘し、修正していくという誠に地味な道しかないと思い至るのである。