『教師力アップ 成功の極意』(堀裕嗣 明治図書)
これは「スペシャリスト直伝!」というシリーズで、この後も名だたる実践家がラインナップされるらしい。
堀さんがシリーズ本に関してブログで記したことを読み、思わず苦笑してしまった。
こう書いてある。
きっと、このシリーズ本をおもしろがって読むのは、力量形成や上達論に対する意識を高くもっている中堅・ベテラン教師だろうとも思う。ああ、オレもあの頃、このような取り組みをすれば良かったという、いくばくかの後悔の念とともに。
「いくばくか」どころではない後悔の念がある。
しかしこの著がいうところの<終わった人たち>に片足を入れている身としては、笑って誤魔化すしかないか。
さて本の内容だが、半分ぐらいはブログで既に読んでいるのではないかと思ったけれど、さすがだなと感じながらまたしみじみと読み入った。
ツイッターで語られた「極意」はいわば、並べられたステッカーであり、それをめくればどんな世界(著者の姿)がのぞけるのか楽しむような気持ちで読めた。
ただしすいすいとは言えない箇所も多く、立ち止まりも多く、結果的には時間のかかった読了である。
最初のキーワードともいっていい「上機嫌」は、最近尊敬する多くの方々が口にする。
言い始めは齋藤孝氏だったのだろうか。「上機嫌の作法」という著書は2005年刊なので、それ以前もあったのではないか。
私もおそらく90年代初め頃だったと記憶しているが,よく思っていた一つに「教師の資質の一つには絶対『明るさ』が入る」ということがある。
当時ひたすら「技術論」を追いかけていた自分にとって、それ以外に確信めいたことを手に入れたと感じたのは少ないのでよく覚えている。
ただ「明るさ」は「無駄に明るい」という言葉もあるように、単独のイメージもあるし、具体的で対人的な「上機嫌」は、まさしくぴったりだといえる。
40項目の「極意」があるので、キーワードは40となるのだと思うが、私なりのひっかかりでまとめてみれば、こうなる。
「不意に」をつくるために、「不在」を認め、求め、「不断に」積み上げる
言葉足らずになることを承知で強引に文章化してみた。
「不意に」は実践上に大きな意味を持つ。自分にはなかったキーワードである。
ただ、名だたる実践者の授業においても、生徒指導上の関わりの中でも、子どもの成長の過程においても、不意に言葉があふれだすという現象を見てきたことは確かであり、それが支えになっていることは大きいだろう。
今はまだぼんやりだが、それをつくりだすための営みは「組む」「注ぐ」そして「待つ」、そのあたりに集約されるかもしれない(とまた勝手に括ろうとする悪い癖が出た)。
「不在」…これもこうした言葉で自分が今まで語ったことはなかった。
年数を経て次第に明らかになる不在を感じるようではもはや手遅れであり、早い段階で明確にすべきことだ。
自分を、周囲を、世の中を、冷静に分析的に見るという訓練も必要な気がする。
著者が記している履歴の中で繰り返しでてくることのように思う。
「不断に」は、本文中に出てくる言葉ではないが、誰しも納得できるだろう。
この本が意図的な積み重ねの成果であることは間違いない。
つぶやいた言葉の裏や奥には、ここに文章化された姿や思いがあり、またそれを支えている二十数年のキャリアが想像できる。三章以降、特に四、五章は私にはそう読みとれた。
おしまいの方で文体について触れている箇所がある。
このことについて意識的で、それを内容に取り入れた教育書は少ないのではないか。
二冊ぐらいの記憶しかない。
一冊は不確かなので書名を出せないが、あと一冊ははっきりと覚えている。
初任の年に買い求めた『齋藤喜博を追って』(向山洋一 昌平社)である。
これは「スペシャリスト直伝!」というシリーズで、この後も名だたる実践家がラインナップされるらしい。
堀さんがシリーズ本に関してブログで記したことを読み、思わず苦笑してしまった。
こう書いてある。
きっと、このシリーズ本をおもしろがって読むのは、力量形成や上達論に対する意識を高くもっている中堅・ベテラン教師だろうとも思う。ああ、オレもあの頃、このような取り組みをすれば良かったという、いくばくかの後悔の念とともに。
「いくばくか」どころではない後悔の念がある。
しかしこの著がいうところの<終わった人たち>に片足を入れている身としては、笑って誤魔化すしかないか。
さて本の内容だが、半分ぐらいはブログで既に読んでいるのではないかと思ったけれど、さすがだなと感じながらまたしみじみと読み入った。
ツイッターで語られた「極意」はいわば、並べられたステッカーであり、それをめくればどんな世界(著者の姿)がのぞけるのか楽しむような気持ちで読めた。
ただしすいすいとは言えない箇所も多く、立ち止まりも多く、結果的には時間のかかった読了である。
最初のキーワードともいっていい「上機嫌」は、最近尊敬する多くの方々が口にする。
言い始めは齋藤孝氏だったのだろうか。「上機嫌の作法」という著書は2005年刊なので、それ以前もあったのではないか。
私もおそらく90年代初め頃だったと記憶しているが,よく思っていた一つに「教師の資質の一つには絶対『明るさ』が入る」ということがある。
当時ひたすら「技術論」を追いかけていた自分にとって、それ以外に確信めいたことを手に入れたと感じたのは少ないのでよく覚えている。
ただ「明るさ」は「無駄に明るい」という言葉もあるように、単独のイメージもあるし、具体的で対人的な「上機嫌」は、まさしくぴったりだといえる。
40項目の「極意」があるので、キーワードは40となるのだと思うが、私なりのひっかかりでまとめてみれば、こうなる。
「不意に」をつくるために、「不在」を認め、求め、「不断に」積み上げる
言葉足らずになることを承知で強引に文章化してみた。
「不意に」は実践上に大きな意味を持つ。自分にはなかったキーワードである。
ただ、名だたる実践者の授業においても、生徒指導上の関わりの中でも、子どもの成長の過程においても、不意に言葉があふれだすという現象を見てきたことは確かであり、それが支えになっていることは大きいだろう。
今はまだぼんやりだが、それをつくりだすための営みは「組む」「注ぐ」そして「待つ」、そのあたりに集約されるかもしれない(とまた勝手に括ろうとする悪い癖が出た)。
「不在」…これもこうした言葉で自分が今まで語ったことはなかった。
年数を経て次第に明らかになる不在を感じるようではもはや手遅れであり、早い段階で明確にすべきことだ。
自分を、周囲を、世の中を、冷静に分析的に見るという訓練も必要な気がする。
著者が記している履歴の中で繰り返しでてくることのように思う。
「不断に」は、本文中に出てくる言葉ではないが、誰しも納得できるだろう。
この本が意図的な積み重ねの成果であることは間違いない。
つぶやいた言葉の裏や奥には、ここに文章化された姿や思いがあり、またそれを支えている二十数年のキャリアが想像できる。三章以降、特に四、五章は私にはそう読みとれた。
おしまいの方で文体について触れている箇所がある。
このことについて意識的で、それを内容に取り入れた教育書は少ないのではないか。
二冊ぐらいの記憶しかない。
一冊は不確かなので書名を出せないが、あと一冊ははっきりと覚えている。
初任の年に買い求めた『齋藤喜博を追って』(向山洋一 昌平社)である。