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目の前は「ガックン」の連続

2012年12月20日 | 読書
 『黄昏』(南伸坊・糸井重里 東京糸井重里事務所)

 「ほぼ日」のサイトで対談していたものに、書き下ろしを加えた本である。
 癒し系と言ってもいい二人が、旅をしながら無駄話に花を咲かせている。
 ほとんどドーデモイイ話に終始しているのだが、どこか魅力が漂う。ほぼ日に集う人たちが積極的に開き、人気コンテンツとなったので書籍化されたらしい。私も一、二度のぞいたような気がする。

 この二人の魅力ってどこにあるのだろう。
 繰り返し書くが、無駄話、ドーデモイイ話だらけである。それが読み手を惹きつけるとすれば、そこに漂う空気感のようなであることは間違いない。

 作り出すのは、「否定をしない」ということか。
 もちろん会話が同意や協調だけで進んでいるわけではない。一種「ホントにオマエはクダラナイナア」という言い合いを呈している雰囲気もある。
 しかしそれは表面上のことで、そこに互いの人格を認め合っている余裕のようなものがある。

 何度も書くが、無駄話、ドーデモイイ話である。
 それは普通の対談本と違って、どこか拡散的に語られ、そしてそのまま浮遊していくというようなイメージか。
 それを二人の魅力と言ってもいいだろう。

 もちろん、ある方面では「達人レベル」の二人だからこそ、話題の選び方にもこだわりがあり、含蓄がある。

 『黄昏』という書名に関して話しているところがある。
 その章が、「『黄昏』じゃないぞ。」というのも、実に、らしい。

 老いということを重ねたイメージの書名だろうが、糸井はこんなことを語っている

 年とるって、じつはそういうことじゃないんだよね。一定の速度でゆるゆる坂を下っていくわけじゃない。落ちるときはガックンガックン落ちていくけど、そうじゃなければ、ふつうに平らな道が続いているんだよ。

 南の頷きをうけて、こう続ける。

 だから、その「ガックン」をひとつ跳び越えちゃっただけで、ずいぶん先まで楽しく歩いていけるじゃないですか。

 これは魅力的な言葉だ。

 ある意味では年齢に関係なく、いやこれは言いすぎだ。ただ少なくとも人生後半戦の世代にとっては、40代でも70代でも当てはまるのではないか。
 目の前の「ガックン」をどう意識して、どう向き合おうとしているか、たぶん一年一年がその連続だ。
 糸井は、そのようにして様々な方向に手を伸ばし、歩き続けている(ように見える)。

 そういえば、今年はその糸井を初めて生で見て、話を聴いた年でもあった。三月の気仙沼である。
  http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/dcca8d49117843908be50f70ac80ac55