『文芸ブルータス』(マガジンハウス)を、ひと通り読み終えた。
「ひと通り」とは一応目を通したが、10人の作家の作品全部を読み切った、という感じまでは届かないということだ。
読み進めないなあと感じた作品は、目を流しているという状態だった。四篇がそんな感じだったので、結構好き嫌いが激しいのか、読書体力がないのか…。
気づいたことを二つ、三つメモしておく。
万城目学の「悟浄出立」は、西遊記を下地にした創作だが、一見読みづらそうな印象を持ったので、ちょっと声を出してみて読んでみた。
そしたら、急にイメージが湧いてきて、どんどんと読み進められるようになってしまった。
以前もそんなことがあったが、やや活字中毒的な自分には字面で判断してしまうことがあり、その時に文に少し声を乗せてみることで、ぐんと魅力を感じたという体験だ。
一つの読書法として,これもありだなと思う。
「悟浄出立」という作品自体は、実に面白い発想である。八戒の前世?が語られることが中心になるが、その八戒が実に渋い言葉を吐く。
「過程こそがいちばん苦しい…この人間界ではそこに最も貴いものが宿ることもある」
さて、字面で判断できないといったものの、堀江敏幸の「デッキブラシを持つ人」は意図的に改行を少なくし、一文を長くしている文体で、どうにもついていけなかった。
この人の書く小説はするっと来るものとそうでないのが明らかで、これはまたどうしたものだろうと思ってしまう。
絲山秋子「ニイタカヤマノボレ」は、優れた作品だ。
鉄塔から伸びる送電線を五線譜に見立てて、音符を載せていく預言者の存在が深い印象を投げつける。そこで「わたし」が叫ぶ「ニイタカヤマノボレ」…そう、あの戦いの暗号だ。
「戦争ならもうとっくに始まっている。そして終わらない」という語りの強烈さにも心が動かされるが、実はコミュニケーションの問題を突き詰める設定となっていて、本当にいい短編を書く作家だと思った。
伊坂幸太郎も、西村賢太も、まあまあそれなりの作品であった。
舞城王太郎は初めて読んだが、奇妙な恋愛小説だった。『群像』誌に載ったものらしく、これは今までのジャンルとは全然違うのだそうだ。
いとうせいこうも初めて読んだ。作品「私が描いた人は」…これもちょっと独特のスタイルで、少し難解な気がした。
それ以外の作品は、舌で舐めてみただけで、身体のなかには入れずじまい。
そこまで無理に詰め込んでみなくてもいいでしょう、という思いの裏には、やはり作品につき合っていく貪欲さ、気力がなくなっているという現実がある。
以上、文芸への助走、結局跳べないまま終了。
「ひと通り」とは一応目を通したが、10人の作家の作品全部を読み切った、という感じまでは届かないということだ。
読み進めないなあと感じた作品は、目を流しているという状態だった。四篇がそんな感じだったので、結構好き嫌いが激しいのか、読書体力がないのか…。
気づいたことを二つ、三つメモしておく。
万城目学の「悟浄出立」は、西遊記を下地にした創作だが、一見読みづらそうな印象を持ったので、ちょっと声を出してみて読んでみた。
そしたら、急にイメージが湧いてきて、どんどんと読み進められるようになってしまった。
以前もそんなことがあったが、やや活字中毒的な自分には字面で判断してしまうことがあり、その時に文に少し声を乗せてみることで、ぐんと魅力を感じたという体験だ。
一つの読書法として,これもありだなと思う。
「悟浄出立」という作品自体は、実に面白い発想である。八戒の前世?が語られることが中心になるが、その八戒が実に渋い言葉を吐く。
「過程こそがいちばん苦しい…この人間界ではそこに最も貴いものが宿ることもある」
さて、字面で判断できないといったものの、堀江敏幸の「デッキブラシを持つ人」は意図的に改行を少なくし、一文を長くしている文体で、どうにもついていけなかった。
この人の書く小説はするっと来るものとそうでないのが明らかで、これはまたどうしたものだろうと思ってしまう。
絲山秋子「ニイタカヤマノボレ」は、優れた作品だ。
鉄塔から伸びる送電線を五線譜に見立てて、音符を載せていく預言者の存在が深い印象を投げつける。そこで「わたし」が叫ぶ「ニイタカヤマノボレ」…そう、あの戦いの暗号だ。
「戦争ならもうとっくに始まっている。そして終わらない」という語りの強烈さにも心が動かされるが、実はコミュニケーションの問題を突き詰める設定となっていて、本当にいい短編を書く作家だと思った。
伊坂幸太郎も、西村賢太も、まあまあそれなりの作品であった。
舞城王太郎は初めて読んだが、奇妙な恋愛小説だった。『群像』誌に載ったものらしく、これは今までのジャンルとは全然違うのだそうだ。
いとうせいこうも初めて読んだ。作品「私が描いた人は」…これもちょっと独特のスタイルで、少し難解な気がした。
それ以外の作品は、舌で舐めてみただけで、身体のなかには入れずじまい。
そこまで無理に詰め込んでみなくてもいいでしょう、という思いの裏には、やはり作品につき合っていく貪欲さ、気力がなくなっているという現実がある。
以上、文芸への助走、結局跳べないまま終了。