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「構造」と直面する覚悟

2012年12月12日 | 読書
 堀裕嗣さんの新刊本を読んでいたら、この本の引用があった。これは確かまだだったなと思い、取り寄せたみた。2007年の発刊である。

  『いじめの構造』(森口朗 新潮新書)

 森口氏の著書は同じ新書で2冊読んでいる。
 教員とは違う視点で語られる面白さがあったが、やや傍観者的かなあというイメージが残っていたのでその後は手にしていなかったのだと思う。

 しかしこの本は、実に的確で学ぶべきことが多い。
 教職についてからいわゆる「いじめ問題」に関しては、全国的に何度か波が押し寄せた。大きな波のきっかけになるのはいつも社会を騒がした「事件」である。
 その度に正直に言えば「ああ、またか」という思いを抱えつつ、報告モノが増えていくという現実を受け入れるしかなかった。それはある意味で、深刻な実態を抱えていない環境に寄りかかっていたことでもある。

 もちろん、自分の経験の中に「いじめ」に該当する問題がなかったわけではない。
 理念も技術も乏しい二十代の頃、女子児童に起こった問題を巡って夜間の電話が相次いだことを懐かしく思い出す。
 今の基準でいえば、あれは間違いなく「いじめ」だったろう。
 若さゆえの突っ走りで劇的に解決をみたと自分では思っているが、はたしてそれはそうだったのか…。
 この夏に該当する教え子たちと宴をもったが、その話題は出なかった。
 あれはどうだったか訊ねてみたい気持ちが湧いてくる。

 さて、この本である。

 「スクールカースト」という概念は、聞いたことはあった。
 しかしはっきりしないままで、読んで改めて納得できたことが大きい収穫だ。

 児童数が少なく単級学年の多い私の住む地区では、多少違った様相で形成されるかもしれない。
 固定化された人間関係の中で、様々に指摘される事項がある。関係づけるのは、子どもの性格や行動のみならず、地域における親や家庭そのものの位置づけまで影響があるだろうと予測する。
 そういった変形モデルまで視野に入れて、解決策を見い出す必要が出てくる。

 滋賀の一件以来、「いじめではないか」「いじめられている」と寄せられる情報が少し増えた気がする。その一つ一つを真摯に受け止めてはいるが、どうしても過剰反応なのではという思いを持ってしまう自分もまたいる。
 その辺りの教員心理の指摘も鋭い。

 寄せられる情報のレベルに差はあるが、それ自体は貴重な資料となる。その対処を通して解決や安心が得られるならば、教育活動として相応しく、有益になるという姿勢でいたい。

 総じてこの著で分析していることは的確だと評価できる。
 教員として対応、対処ができるための参考書として位置づけてもいいと感じた。

 『いじめの構造』という書名は、そのものを表わしているとともに、いじめに向かう学校の構造でもあり、社会の構造でもあり、日本人の意識の構造でもある。

 この本にもカッコで括られて登場する「毅然として」は、解決のためのキーワードに違いない。
 それを各自が持ち場で示せるかどうかにかかってくるが、いずれ「構造」の問題と直面するという覚悟のいることである。