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口福は,幸福にきっと近い

2012年12月25日 | 雑記帳
 たまたま泊まったホテルで新聞を見ていたら、作家の平野啓一郎が、「作家の口福」と題した文章を寄せていた。
ふだん購読していない新聞なので、土曜版の連載なのかどうかわからないが、そんな趣のある紙面設定だった。

 平野は、知人のオーディオ・マニアのこんな話に納得したと書く。

 人は、質が上がった時には意外とわからない。しかし、下がった時には瞬時にわかる、と。

 そして「食もそうじゃないか」と思い、文を続けている。
 学生時代にうまいと感じていた食べ物を、今食べたときに懐かしさはあるが、「ウマい」とは感じられなくなっている自分のことを吐露している。

 確かにそういうことはあるなあ、と思う。
 本当に懐かしく食べたものは、舌がその味を覚えていて一瞬昔の世界へ引き戻されるような感覚を持つのだが、だからといってそれは本当に「ウマい」のか、三個目を食べたあたりからその思いに取りつかれる。
 多くの場合、昔の食べ物がウマいわけがない。

 例えば、私は酸味の強いリンゴ、今はあまり出なくなった「紅玉」が好きで、今年もなんとか買い求めて食してみた。
 しかし、確かにあの独特のすっぱさ、抑えめの甘さのバランスがとてもいいと感じつつ…やっぱりきちんと熟して蜜の入っているフジがおいしいだろうという結論に達する。
 居酒屋のメニューだけではなく、魚肉ソーセージやコロッケなど家庭での惣菜、品種改良された果物、野菜などでも、まったくそうだ。

 幼い時や若い頃の味覚は、やはり信用おけないというか、発展途上なのだと思う。そして、味覚は劇的に変わらず、年月や経験を重ねることで、微妙に変化し続ける。
 かつては「おふくろの味」といわれた、各家々の味は今どのくらいの割合で残っているのだろうか。

 さて、給食を食べている子どもの姿を見るにつけ、家庭での食事を想像できることもある。
 安価なわりに工夫されたメニューに、難癖をつけたがるのは齢のいった人たちであって、子どもたちの多くは素直に口に入れている。
 家庭の食環境が多様化している現状を見れば、給食の果たす役割は、その子によって大きくもあり、小さくもある。
 ただ、既製品的な味にならされている現状はおそらく強いだろう。

 明日から冬休み。
 日に三度、どんな食事をしているのか、おそらくそれだけを書かせても、家庭生活の大方は想像できるのではないか。

 きっと「口福」は「幸福」にかなり近いのである。
 積み重ねられていく感覚である。