すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ちょっとかなわない,と呟いて

2012年12月04日 | 読書
 花巻での鍛える国語教室で、庭野三省先生とお話をする機会を得た。
 大いなる刺激を受けた。

 昨年、新潟の十日町市立東小学校を訪れたときに数冊買い求めた中から、次の2冊を改めてめくってみる。

 『百冊の本 第17巻』  『私の教師修業 第11巻』

 当時、校長であった庭野先生が作られた冊子である。

 共にA4版、前者は308ページ、後者は総ページ数は打たれていないがこれも300ページをゆうに超していることはその厚みからわかる。

 『私の教師修業』は、「東っ子」と題された保護者向け通信と、「東の学び」という職員向けの通信が主になっている。

 それにしても凄まじいばかりの量から感じるのは、当然ながら尋常ではないエネルギーである。

 「文章だけはせっせせっせと書いてきた」
 「そのとき、そのとき集中して書けばいい」
 「リーダーシップを発揮せよと求められたら、私の場合、文章でそれを発揮するしかない」


 等々、いずれも、いい意味の「居直り」に徹した言葉であり、庭野先生の処世訓ともいうべき「悩むな、反省するな、次を考えろ」を、書籍という形で実現したものだ。

 私もある程度は書いてきた。
 学級通信、実践記録、研究通信、学校報、そしてホームページを立ち上げてからの読書記録等…しかし、こうした膨大な足跡を見せつけられると、あまりにも薄っぺらなことに気づいて気持ちも萎えてしまいそうだ。

 どこが違うか、それはたくさんあるけれども、例えば「読書記録」一つとっても、クラッシック音楽や恋愛小説までターゲット(というより、全部書くと決めているから、より大きく範囲をとって向き合っていること)にしている。これはちょっとかなわない。

 読書記録一篇の長さもかなりのもので、ほとんどの場合、自分の仕事や暮らしにぐうっと引きつけ、いわば作者・著者との対話を試みている。ほんのちょっと引っ掻かった言葉なり文章を取り上げ、ちいたら書き連ねている私とは大違いで、これまた、ちょっとかなわない。

 『百冊の本』の中に、こんな記述がある。

 私は、A4版4枚の長い長い年賀通信を出している

 「多分、長さでは日本一か?」と但し書きがついているが、その通りだろう。年賀通信の中身は予想するしかないが、そこにはきっと去る年の歩みがふり返られ、来る年の決意や企画が、希望を持って書き込まれているに違いない。
 それがはがき一枚であれば、私ごときでも可能であろうが、その量のものを毎年続けているということは、想像を越えて豊かな内実があるからと言いきってよいと思う。

 これはちょっとかなわない。

 そう呟いてみて…ではどんな手があるのだろう、ちがった形の発信があるはずじゃないか、とまだ低い声で考えている自分もいるようで…そのことがちょっぴり嬉しい。