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鉄則はごく平凡だった

2012年12月03日 | 雑記帳
 今年も花巻を訪れ、鍛える国語教室に参加させていただいた。

 「発問道場」では、野口先生にばっさりと斬り捨てられたが、いい経験となった。否定されること自体は、意図的計画的ではないが、参加を続けて確実に経験が積み重ねられていることは確かだろう。
 そう考えると、こんな自分でも何かしらは上達しているのかもしれない。

 さて、今回のご講演は「私はこうして附属の子を鍛えた」という学級担任時代の実践の紹介だった。もちろんお話の範囲はそれだけには留まらず、いつ、何度聴いても「学び」がある。

 多くの実践例は、すでに本で読んだり、以前うかがったりした事柄ではあるが、その背景や関連として話される含蓄ある内容によって、また惹きつけられた。

 さらに、今回私は、野口実践の括りの一つとして、あるキーワードを見つけたように思う。

 それは「予告」である。

 ごく普通の言葉であり、私達もまた日常に多くの「予告」をしている。
 しかし、野口先生の場合は、それをかなり意図的に、そして強い一本の芯として明確にしておくことが顕著だと思う。

 今回のお話の中では、たとえば「私が許さないこと三つ」という学級開きにおける生活指導上の宣言?や、学習面における日直作文という輪番システム、宿題の事前プリント配布などが挙げられる。

 授業の手法にもそれは表れる。

 「これ以上うまくは読めないという最高の音読をしなさい」
 「これから読む人の音読に、○、×をつけてもらうから、そのつもりで聞きなさい」
 「(机間巡視の前に)先生から耳をひっぱられた人は発言します」

 野口実践ではよく口にされるこれらの予告が、活動に見通しと緊張感を与え、当事者性を持たせることは疑いないだろう。

 では、人は(自分は、ということだが)なぜ明確に予告できないのか。
 一つには計画性がない、ねらいや見通しの準備をしていないということになるだろう。
 そしてもう一つは、自信のなさ、見え隠れする責任回避の心ではないか。

 学級減に伴う職員減のトラブルを例に話されたことだが、学級であれ大人集団であれ、それに向かう場合の鉄則はごく平凡であり、同時にないがしろにできないことである。
 今回、先生はこう語られた。

 前もって話しておくべきことを、しっかり言う

 予想されることに対しては、あらかじめ伝えておく