すぷりんぐぶろぐ

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幸せの定義は焦点化される

2012年12月07日 | 読書
 ♪縦の糸はあなた、横の糸はわたし
  逢うべき糸に出逢えることを
  人は仕合わせと呼びます♪


 名曲『糸』(by中島みゆき)のエンディングである。
 この曲を知る以前から「幸せ」ということばが「仕合わせ」から来ている説があることは知っていた。

 新潮社のPR誌『波』今月号の連載「とかなんとか言語学」で、橋秀実がそのことについて角川古語大辞典で調べたことをもとにこう書いている。

 「しあわせ」はもともと「しあはす(仕合はす)」という動詞の名詞形なのである。


 その「しあはす」ついても、同じ辞典をもとに次のように書かれてある。

 うまく合うようにする。間に合わせる


 さらに、時代別国語大辞典も紐解いて、そもそもは着物と裏地を仮縫いし、裁ち合せることを表現していたらしく、当然そこには失敗もあり、次のような言い方もあったとしている。

 「しあはせ善し」「しあはせ悪し」


 そう考えると、「しあわせ」自体にハッピーもアンハッピーもないことがわかる。
 結局「幸福」という漢語登場により「固定化」、行為でなく「もの」化してしまったことは実に頷ける。

 連載の文章は、その後ヒルティ著の『幸福論』の曖昧さや混沌さを話題にして、それなりに面白い。またライバル同士?である勝間和代VS香山リカが言い合う場面の引用なども絶妙である。

 結局、少し脱力感のあるこんなまとめにたどりつく。

 やはり「しあわす」をわすれないことがしあわせなのではないか、と私は深く溜め息をついた。


 行動のなかに「しあわせ」がある。そしてそれはきっと「しあわす」行為の中に生まれる。

 そういえば『ちくま』の今月号にも、こんな文章が載っていた。
 藤井直敬という脳科学研究者の言だ。

 人の幸せがどこにあるかというのを考えると、やはり「関係性」の中にしかないですよね。

 これを信じれば、幸せの定義はぐっと焦点化される。