すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

世之介らしさは希望なのだ

2012年12月05日 | 読書
 年代も、過ごした場所も違うのだけれど、なぜか懐かしい。

 「青春小説」というジャンルがあるのかどうか定かではないが(帯に「青春小説の金字塔」なんていうコピーがある)、多くの読者が若い一時期の感情を重ねることができるとすれば、まさしくそういう呼び方が当てはまるのかもれしない。

 『横道世之介』(吉田修一 文春文庫)

 文句なく好きな作家の一人である。
 今までは『悪人』や『さよなら渓谷』といった犯罪モノが素晴らしいと思っていた。この小説にそれはないが、人物像の描き方はやはりうまいなあと思う。

 九州の田舎から上京した主人公の一年間を描きながら、途中に登場人物たちのおよそ二十年後の現在が差し込まれる。
 そこに想起される主人公世之介の存在の濃淡はいろいろだが、その表現は誰しもが心の隅に抱いている微かな灯りを示しているような気がする。

 登場人物たちの短い話の中で、少しずつ主人公の境遇が明らかにされる設定。
 結末は誇らしくもあるが、痛ましい。あの新大久保駅での出来事が種になっているようにも思う。

 何か特別な才能や優れた感性の持ち主として描かれているわけではない。
 ただ「まあ大丈夫」「なんとかなる、なんとかする」といったその時代の学生によく見られがちだった雰囲気が、身体からにじみ出ていて、その切羽詰まらない心が主人公を形づくっていくのだと思う。
 偶然巡り合ったライカとともに成長を遂げていったことが読み取れる設定だ。

 残念ながら、その過程ともいうべき主人公の二十数年は語られないままであるが、その根の存在を深く印象づけて、物語は閉じられていた。

 その根とは何か。

 あえて、ことばにしてみれば「希望」ということだ。

 小説上の人物だけでなく、人々が抱える絶望的、もしくはその一歩手前の状況のなかで、足を進めさせるのは惰性や損得だけではなく、希望の存在だ。
 姿は違えど、そこに見出す光に人は行く手を照らしてもらう。

 そして希望はきっと、「まあ大丈夫」「なんとかなる」という呑気さに守られていくらしいことに、この齢になって薄々と気づいてきた。

 世之介らしさは、多くの人に備わっていることだと思う。