すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

想像して,考えを深めること

2014年01月17日 | 読書
 「2014読了」6冊目 ★★★

 『完本 日本語のために』(丸谷才一 新潮文庫)


 一昨年に没した著者の本は、以前にも1,2冊は読んでいると思う。
 「国語教科書批判」の内容についても若干の知識はあった。

 しかし著者がここで語っている「国語改革」「国語教科書」「入試問題」等への批判に対して、現在の私には根拠をもって賛否を明解にできるほどの力はない。
 ただ、各論の部分では、今さらながらひどく納得できることも多かった。

 例えば、私も漢字配当表に関してはとらわれずにどんどん使い、教科書にもルビつきで載せた方がいいと考えている。
 その根拠の一つとも言える次の文章は、当たり前すぎて今まで気がつかなかった。


 大人だつて子供だつて、振り仮名つきで読めるだけの漢字、読めるが書けない漢字、読めるし書ける漢字の三段階があるのは当たり前なのである。


 さて今、改めてそれらが収められたこの文庫を読みとおして(正直、読み取ったというレベルまではいっていない)感ずるのは、やはり自らの浅学と想像力の乏しさだ。
 非才であることを自覚してもっと鍛えるべきだった、と今さらながらに反省させられる。

 下に挙げた風景は一瞬想像できたとは思うが、その意味を持ち続けて考えを深めようとしなかった。


 明治大正のころの日本人ははなはだしく無口だつたし、ものを言はないで黙りこんでゐる代り、よく泣いた。


 こうした風俗の視点であっても、歴史と言語という切り口で思考は深められる。
 それまでの時代に使われていた言語の特徴が浮かび上がってくるし、その中でどんな言語文化が花開いたかも想像できる。

 また、戦後の制度改革とともに自由な気風が育てた精神のあり様と、言語との結び付きの強さは、やはり大したものだと納得できる。


 音読や黙読について言及しているところも興味深かった。
 黙読による読書習慣の広がりについて、それ以前のことをこう分析してみせる。


 かういふ音読の習癖は、誰かに朗読してもらつてそれを聞くのが読書の普通のかたちであつた状態の痕跡にちがひない。


 これも単に読書形態や読書速度を問題にして解釈するだけではない。

 
 音読的=非散文的な社会に生きてゐたといふことであらう


 なるほど、なるほど…ということは…と考えがひろがる。
 ここには「言語道具説」を乗り越える、明確なものの見方がある。


 解説を書いた大野晋氏の次の一言は、心したい。
 
 言語を、伝わればよいと考えるところに、すでに精神の荒廃がある。


 拙文に、格調は求めるべくもないが、せめていい加減とは言われたくない。