すぷりんぐぶろぐ

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わかろうとする者は声を聴け

2020年09月15日 | 読書
 昨日のブログに「今もわかろうとしているか」と題したのは、それが子どもに対する環境としての「大人」の条件である、というニュアンスを込めたつもりだったが…。これは結局、「学び続ける」というありがちな表現とそう変わらない。そう考えつつ、この題づけは現在の世の中でもう一つ大事な面があると気づく。



 コロナ禍により改めて深く考えざるを得ない、この複雑で不安定な社会状況。昔ははっきりイメージできた未来は、誰の頭の中でもぼんやりしてきた。言うまでもなく国際化、情報化が進み、いくら地方に居て狭い範囲で過ごしていても、「多様さ」を考えずに日々の仕事や暮らしを維持していくことは難しくなってきた。


 五味太郎が『大人問題』で呟いた一言の中に、こんな一節があった。

 わかり合うことでつながるより、わかっていないことの認識でのつながりのほうが熱いと感じます。わかろうとする、わかりたいと思う意志のようなものが相互関係を熱くします。


 「三無主義」と名づけられた世代である私は、田舎の小学校教師になってもどこか醒めた目で子どもを見ていた。新任の時はわずか十数人の子に向かって「みんながみんなと仲よくすることはできないのだ」と口走った記憶もある。もちろん「では、どういう時に…」と進めていったつもりだが、現実はどうだったのか。


 「わかり合えないことを、わかり合う」と言って満足しては、きっとまだまだだ。人が皆「わかりたい」と願えるかどうか…その根本から俯瞰しつつ、それでもわかろうとする意志を持つことが前提だ。世界の、日本のリーダー達はどんな声を発しているか。もちろん自らの日常の声も、この耳でしっかり聴きたい。