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二度寝に頼るお年頃

2020年09月10日 | 読書
 二度寝は気持ちがいい、と若い頃はそんなことをあまり感じなかった。しかし、朝の目覚めが早かったり、夜中にしばしば覚醒したりするお年頃になると、これがまた心地よい。というより頭のスッキリ度合が違うのだ。そういう個人的な感覚とどうつながるかは知らぬが、いずれ、二度寝とは「至福」と別記してよい。


『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(津村記久子 講談社文庫)


 この作家の文章は、雑誌の連載でたまに読んでいるがさほど印象めいたものは残らなかった。今回、書名に惹かれてこのエッセイ集を読んでみたら、なかなかの手練れだなあと思った。中央紙某A新聞の連載も収められているとのこと。その身辺雑記の切り取り方に感心する。描写の視座はこの一節に集約されるとみた。

「以前は、人には表の顔と裏の顔がある、と理解するぐらいでよかったのが、今は表の顔、素顔、裏の顔、三つに分かれているようだ。」


 これは人物に限ったことでなく、様々な物事全般に言えることではないか。表面的なことの他に、「裏がある」ことは誰しもわかる。しかし、その中間もしくは底辺にある「素顔」と形容してもいい姿に気づくことが、表現者としての肝になるのではないか。その探り方、見つけ方が上手いことが作家としての資質だ。


 たとえば、「昔住んでいた家」を探しに出かけた章における、見つけたときの感覚のおさめ方など、なるほどなあと思わされる。実物を目にした時の懐かしさと違和感をこのように表す。「風景はかなり正確に覚えているのに、物の大小に関しては、とても主観に満ちている」…これは物の感じ方の核心とも言えないか。


 たとえば、「妙齢 初老 いい年」の章では、そうした形容に込められた人間の感情のあれこれを書くだけでなく、次のような考えを披露し「いい年」という言葉を見事に着地させている。「年をとると言うことは、その年相応であることと同時に、それまで経てきた年齢のすべてを内包するということなのではないか


 夢のようだ…2年前

 個人的には、年相応がいつも現実にさらされているので、「二度寝」でそれまで経てきた年齢を再生させる夢でも見て、いつでも引き出せるように出来たらいいと勝手なことを考える。