すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

だから、ふらつくのだ

2020年09月26日 | 読書
 先日読了した『再生の島』(奥野修司 文春文庫)のなかで、指導者坂本が語った印象深いことばがある。

 「食うために働くことから解放されたとき、人の生き方のベクトルはその方向(幸せを目指す自己実現)を向くはずでした。しかし、それは社会、とくに資本主義の社会がスムーズに回転していくためには邪魔なものになります。」


 
 これは、個と社会の関係性を問うなかで、繰り返し言われてきたことかもしれない。ただ、この部分を読んで、ふと今月上旬に放送された「ズームバック オチアイ」というNHKの番組を思い出した。

 今、いや以前からずっと教育の目指す方向として「自分の頭で考える人間」という点は喧伝されてきたと思う。実際、なかなか実現できなかったから、繰り返し似たような語でアピールされてきた。問題解決能力といったり、個性といったり、自己有用感といったり、光の当て方は多少違えど、「自分の頭で考える」力を伸ばす教育に疑いを抱く人はいなかったろう。

 しかし、その番組で落合と担当ディレクターはおおよそこんなことを語り合っていたと記憶している。

 「自分の頭で考える人間」を社会は求めていない。かつて、そんな時代はなかったし、この後もあるのか。



 まさに身も蓋もない言い方に聞こえるが、それが歴史的事実であり、確率性の高い将来像なのかもしれない、とふと思う。
 「自分の頭で考える人間」は、社会のほんの一握りであったほうが都合よく、それ以外は支配層の言うことに従順であればいい…旧態依然とした考えの滲みは消え去ることなく残っていると認めざるを得ない。


 絶えず向き合っていないから、ベクトルがふらつくのだ。