すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「師を持っている強さ」を知れ

2007年03月15日 | 雑記帳
 T先生の訃報を新聞で見つけた。

 同職したり所属団体が同じだったりすることはなかったが、私にとっては印象に残る先輩教師の一人である。

 指導主事をなさっていたときに何度か授業を見ていただいたことがある。
 その後の協議会での、理路整然とした助言が記憶にある。
 学究肌ともいうべき先生だったので、当時仲間と共にサークルを立ち上げ、様々なことを試みていた生意気盛りの私にとっては耳の痛い指導もあった。

 そのT先生が、参観した私の授業を取り上げ誉めてくださった文章をある冊子に載せたことがあった。
 官からも組合からもあまり評判のよくなかった私にとって、正直その評価はとても嬉しかった。悩んで作り上げたオリジナルの発想だっただけに余計に印象深い。
 おかげで専門とは言えない算数の授業まで、興味本位の?参観者が増えたのには正直まいったが…。

 T先生は、教育方法学者として著名な故吉本均氏の信奉者であった。
 「まなざし」「タクト」そういったキーワードが、お話のところどころに出てきたように思う。
 校長として学校経営する立場になっても、この遠方の地に吉本先生を招き開いた学習会なども先頭に立って企画されていたはずである。バイタリティのある方だった。

 昨秋、退職者の方々との合同の会があり、久しぶりにそのT先生とお会いできた。退職後10年が経過していたが、授業について語る姿はまだ熱があった。
 ああやはりT先生だなあと思いつつ、同時に何故にそこまで意志を持続できているのかうらやましく感じながら、語り合ったことが思い出される。

 過日読み終えた『下流志向』の中で、内田樹氏は「教育者に必要な条件」を問われて、ただ一言こう言いきっている。

「師を持っている」ということだけでいい
 
 おそらくT先生は、吉本均という生涯の師を持ち、ものの見方の基準としながら自らの考えを深めてきた。だからこそぶれずに、教育という道を進み通すことができたのだろう。

 むろん、私にも師と呼びたい方はいるのだが、改めて、師と呼べるほどに学びきっているかと思うと、最近の我が体たらくを恥じるばかりである。

 「師を持っている強さ」をはっきりと体現してくれたT先生。
 先生は、最後にその大事なことを私に気づかせてくれました。
 ありがとうございました。合掌

知的なものに突き動かされる幸せ

2007年03月14日 | 読書
 2月末の日曜日に放映されたNHKスペシャルは「学習療法」がテーマだった。
 立命館小学校公開研に参加したときに、講師である川島隆太東北大学教授からその話が少しあったので興味を持って視聴した。

 老人介護施設で「読み・書き・算」を行い、脳機能の回復を試みる内容である。
介護士たちの精力的な活動や機能を回復した老人が手紙を書くくだりなど、いいシーンが多かった。学習室の壁に「くもん」のポスターが貼ってあることもなんとなく記憶に残る。
 もうちょっと知りたいなあという気にさせられた番組だった。

 数日して立ち寄った書店で一冊の本を見つけた。

『「読み」「書き」「算」で脳がよみがえる』(高瀬 毅著 くもん出版)

 ルポルタージュのような形式で、番組で取り上げられた老人介護施設「永寿園」を取り上げ、学習療法とその現実について書き込まれた本である。

 この施設の中心人物であり、活動の推進者でもある山崎副園長さんのお話など実に興味深かった。(なぜテレビでは中心的な取り扱いにならなかったのか…)
 県職員として知的障害者施設の学習係担当となり、手探りで始めたことが、今の仕事で老人対象に読み書き算を行うことにつながり、それが貴重なデータとなっていること。それ以上に学習療法によって、元気さを取り戻した老人が少なくない事実。
 ページ数は少ないが、山崎さんの意志の強さがくっきりと見え、数々の出会いを切り開いて仕事の道筋をはっきりさせているという印象を持った。

 中心テーマからは外れることだろうが、永寿園の人事評価システムの細かさにも驚嘆した。意識改革のために、介護の現場スタッフにテープレコーダーを持たせ、声かけを録音し、みんなで聴いて評価しあったという。
 むろん教育現場と単純な比較はできないが、形式や目標設定のみにとらわれず、風土や空気づくりに時間をかけたという話に見習うべき根本を感じる。

 ルポのまとめの段階で、著者は「痴呆の人に勉強させる意味」を問い続け、このように結論づける。

 人間が学習することのもっとも根源にある価値というのは、貯金のように知識を貯めていくのではなく、何かの利益のためにするのでもなく、いま、このとき、内側からわきあがってくる、知的ななにものかに突き動かされた結果であり、いまと明日を生きていくためにある

 この言葉を、脳の働きや発達とどう結びつけて考えるべきか、専門的知識は持ち合せていないが、おそらくは幼い時の学び、元気だった頃の働き…それらの習慣化が脳の中に何かを形作り、源になっているのではないか。そう思いたい。
 テレビでも本の中でも、印象的なのは老人たちの笑顔であり、充実感を述べる言葉である。

 唐突に思い出す、ある先輩教師から聴いた一言。

 学力とは、幸せをつくる力 

 その意味でとらえると「学力低下」ほど大きい問題はない、ということに改めて気づく。

ほら来やがったと受けとめろ

2007年03月13日 | 読書
 十数年前だと思う。雑誌記事だったかラジオからの声だったか定かではないが、それ以来ずっと忘れていないフレーズがある。たしか米国人が自国との比較において語った言葉だった。

 日本は裕福な時代の子育てをしたことがない

 ベストセラーとなった『下流志向』(内田樹著  講談社)を読み、見事にそれにつながる文章を見つける。

 子どもたちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している

 諏訪哲二氏の著書から示唆をうけたこの一文が、この本全体を貫いていると言ってもいいだろう。

 初等教育に携わる私たちにとっては、とてつもなく重い言葉である。

 この本には「学びからの逃走・労働からの逃走」について掘り下げられた文章が、これでもかというほどに書き連ねられていて、深く納得しつつ、少し悲観的な気分になってしまった土曜日の午前であった。

 午後からお隣の中学校の卒業式に参列し、その静粛さや堂々たる態度に感心しながらも、どうにも「消費主体」という言葉が頭を離れない。
 卒業生が目の前で胸を張る姿、泣き顔の純な姿を見つつも、今この地方にも侵食しつつある現実が、少し怖かったのかもしれない。

 振り払って現実に向かおうとするとき、二つの視点が見えてきた。

 一つは、こうした現実が社会的合意を得られるかという点である。
 内田氏はやや楽観的な考えも記しているが、この問題はかなり構造的であると思う。
 正月以来ずっと読みかけのままである『効果のある学校』(鍋島祥郎著 解放出版社)の中にこんな一節があった。

 消費行動が階層関係を再生産する「豊かさのなかの文化的な貧しさ」こそ、今日の階層性である

 この連鎖をくい止めるには、かなりの大手術が必要なことは誰の目にも明らかだろう。
(ここまで書いて、自分が忘れていなかった米国人の声は裕福な層からのものであったことに今さらながらに気づく)
 社会的なアナウンスだけではなく、明確に舵取りの問題である。

 もう一点は、現場人としてどう実践を作り出していくかである。
 難儀さは十分に予想しながらも、これについては前者より悲観的ではない。
 様々な一流の実践者の姿を見てきた。そこでの子供たちの様子に励まされてきた。
 状況は悪化しようとも、それに向かうことが仕事だろうと思う。
 
 困難を抱える子を「ほらほら来やがった」と軽口をたたけるくらいに受けとめられたら最高だ。
 有史以来の存在?にもそう言って立ち向かおうではないか。
 そのためには、やはりシステムとレパートリーだな、といつもの結論になる。

三月の雪に全能感を砕かれて

2007年03月10日 | 教育ノート
 全校集会で子供たちに「暖冬」の話をしたので、その報告がてら書き始めた文だったが、途中で思考があれこれとんでしまった。
 結局、前週の年度末PTA全体会で「自己有能感」「仮想的有能感」「幼児的全能感」の話をしたので、何かそれに無理やり結びつけるような形になった。
 学校報も40を超したが、結構気ままに書いてきて反省も多い。
 最後は、ぴりっと締めたいのだが…
 
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 全校集会で暖冬の話をしたら、待っていたように?雪が降り始めました。
 三月半ばの雪が珍しいわけではありませんが、今年はなんだか「季節はずれ」の感じもします。気象庁のデータで平均気温をみると、今冬(12月から2月)の記録は、統計を開始した1899年以降で第1位タイ(1949年と同)という高さだそうです。およそ60年ぶりの暖冬と言えます。積雪量も少なく、市の記録を去年と比較すると約3分の1となっていました。
 雪寄せ、雪下ろしも少なく、登下校、通勤なども楽な年だったと言えるでしょう。
 
 集会の話では、暖冬でよかったと思う人がいる反面、困っている人もいる、ということで、除雪に関係する方々、スキー場関係者、冬物商品を扱う商店、さらには野菜作りの生産者などを挙げていきました。
 もちろん、この地区で最も心配なのは稲作に関わる水不足などが予想されることです。改めて、自然現象が個人の生活や経済全体に及ぼす影響は大きいものだなあ、と感じてしまいます。

 私事で恐縮ですが、昨冬のこともありほんの少しだけ電力による融雪設備を取りつけました。当然、この冬の稼動は少なかったのですが、設定期間が終了という今になって、この雪です。
 「マッタグ、ナエダナヨ」とぼやきたくもなりました。
 その時、あっと思ったのが先週PTAでお話した「(幼児的)全能感」のことでした。
 何でも思い通りなると考えている人間の感覚が、まさしくそれに通ずるなあということです。自然現象に対応する様々なモノを開発し、快適さを求めてきた人類ですが、まだまだ自然の大きさの前には無力さを感じさせられることは多いものです。

 こと自然に限らず、人間社会にもどうにもならないことはついてまわります。身近な暮らしの中にもたくさんあるでしょう。
 それは子供たちが大きくなって間違いなく直面することです。
 問題を乗り越えていく力をつけるために、成功体験やほめたり励ましたりすることはなくてはならないのですが、同時に辛い経験、失敗、挫折などを経て学ぶことも非常に多いはずです。
 将来、自力で様々なことに取り組めるようになるために、このことは少しずつ、しかしきっちりと教えなければいけないと思うのです。
「自分の思い通りにいかないことなんて、たくさんあるんだよ」
(3/8)
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緻密さと誠実さと、そして大胆さ

2007年03月09日 | 読書
 野中信行先生が著した『新卒教師時代を生き抜く心得術60』(明治図書)を一気に読み通した。

 野中先生は、あとがきにこう記されている。

 書き終えて、「なあんだ。この程度の実践をおまえはしていたのか」という思いになった。

 しかし、中堅やベテランといわれる教員が読んだとき、この本に表されている「この程度の実践」をどれほどの重みでとらえられるか…
 それは、現場人として自分がどれだけ仕事を真摯に見つめてきたか、が問われることになるのである。
 確かに、題名からある程度のキャリアを持つ教員は手に取りにくい?本かもしれないが、多くの項目について、自らのそれと比較してみることは決して無駄ではないし、学ぶべき多くのことがあるだろう。

 私が勤務している県ではここ数年厳しい教員採用状況が続いている。小学校では全県でも20名程度なのである。
 地方の過疎化、少子化が進行している県ではおそらく似たようなものではないか。順調に需要があるとしても、本県では十年以上先になるだろう。
 だから、これから多くの新採用者が入るという都市圏の状況、というより教師を目指す方々のイメージがわかないことも確かだ。教職希望の動機がどんなものだろうと思う。
 今どき、かつての青春学園ドラマのような展開を期待している志望者は皆無だろうが、どんなに厳しい現実であっても、何か教えたいことがあり、伝えたい気持ちがあるからこそ、この職業を選択するのではないだろうか。

 そうした思いを上手くコントロールするために必要な本だと思った。

 今まであまり書かなかった教員世界の常識的なことも書いてある。熱意や自分の考えだけでは乗り切れない現実も書いてある。
 特に「学級経営」の章に多くが割かれていること、「教科指導」の章も、言ってみれば学習規律や技能面が中心になっているところに、野中先生の主張が強く出ていると感じた。

 上條晴夫先生が使われた比喩で言えば、学級を「不安定な湿地」ではなく「安定した草原」として存在させるための緻密な作戦である。
 「給食」や「掃除」や「くつだな」のことが繰り返しでてくることの重みは、誠実な学級担任であれば深く肯くところであろう。
 草原を維持していくためのポイントは、日常の些細なことにつきるのである。

 さて、いくつも肯き付箋を貼りつけた本であったが、読み返して一番好きな記述はここだなあと改めて思った。

 好きなこと、得意なことで、子供たちに迫っていけばいい。人と人との出会いで強烈なのは、そこにその人の「本音」があるかどうかである。子供たちは、その教師の本音に裏打ちされた言葉に強く感動する。
 子供たちは、「本音」で迫ってくれる先生が好きになり、そしてその教師が好きなもの、得意なものにあこがれる。
 いつの時代になっても、この原則は変わらない。

 こうした言葉に励まされて、若い教師は大胆さを発揮できるのではないか。
 大胆さは、ある意味で教師の醍醐味である。
 また、うつむき加減の?職員室に元気さを残していくためにも必要なことと思えてならない。

 去年の春、赴任した初日に挨拶したとき、私も似たようなことを話した。
 今年も改めて言おうと思う。

情報の海面に出る努力

2007年03月08日 | 雑記帳
 大前研一氏は言う。

 今の社会の中核を担っている世代は、水をブグブグ含んだスポンジみたいなもので、溢れるような情報に浸されながらも、自分の中に新しいものを吸収するという「渇き」がないのである
 『プレジデント』(2007.3.19)

 時々、自分でも思う。
 情報の海の中にどっぷりつかり、脳や身体が目一杯で実際の動きが逆に鈍くなるような状態…
 これは完全に飲み込まれていると思いつつ、なかなか抜け出せずに漂っているのが現状か。

 教えられた答を覚えて吸収するという習慣を、自ら受けた教育の中でしっかり身につけたからなのだろうが、急激に拡大する情報量の多さの前では、それがかえってあだになる。
 ここに、例えば「選択」といったキーワードの重要性があるのだが、まず今はそれ以上に情報の海面に出るという努力が必要だ。

 では、どうすればいいか。
 情報の遮断か。
 それも一つの手ではある。
 しかし、思い切った遮断や制御を行うためには、生活全体の見直しも必要だ。

 スポンジを乾かすためには、吐き出す以外に手はないだろう。
 アウトプットか。
 情報を加工し、自らの発信によってスポンジを絞り乾かし「渇き」につなげていく。
 今、海面に出るためには、それしかないようだ。

女坂の教育を成り立たせるには

2007年03月07日 | 読書
 『いじめを粉砕する九つの鉄則』(幻冬舎新書)という、なんとも勇ましい本を読んだ。
 著者谷沢永一氏の文章は目にしたことはあったが、一冊の本として読むのは初めてである。
 前書きにこうある。

 私が心から同情にたえないのは、全国の教師の皆さんの苦衷である。いじめ、が問題になるたびに、まるで教師に責任があると判定するかのような論調が見られる。それはまったくもって不当な言いがかりである。(略)
 繰り返し言う。こと、いじめ、の問題に関するかぎり、学校の教師に責任はない。

 なんとも頼もしい?論述である。
 期待を持って読み進めた。
 そして、思ったことのいくつか。

 まず、題名にややいつわりありである。
 「いじめを粉砕する」とあるが、実は本文にも書かれてあるように「いじめ、いじめられる存在が人間と知れ」が本論なのである。
 結局、「いじめ」は動物の根源的な現象であること、そして問題なのはそれを増長させている社会や家庭のあり方、という焦点のあて方である。その論ならば別に目新しいことではない。

 谷沢氏の「鉄則」は、弱肉強食的な考え方を貫くことと言ってよい。
 「強くあれ」「自分の道を進め」「覚悟して生きよ」そして「自殺させる前にいじめっ子を殺せ」「家に火をつけろ」といった過激なフレーズまで飛び出す、徹底抗戦論者である。
 学校の教師の口からも、「死にたいなら死ね」と言わせることが是とされている。

 この国、社会が持つ脆弱な箇所を見事に言い当てられているし、共感できる部分も多い。毅然とした態度、気概を持ち進めること…それなしにいじめの問題には対応できない。
 がしかし、こと具体的な言動として考えたとき、氏の言うことは非現実的といっていい。
 もうすでに毒が身体をまわり始めた人に対して、うさぎ跳びでもやらせ鍛えることが問題の解決となるだろうか、そんな読後感を持った。

 ただ、谷沢氏はもしかしたら、そうした読者の感覚さえ見通して、自分の主張を展開してみせているのかもしれない。
 最終章が次の文章で終わっていることは、読者への突き放しなのだろうか。

 教育はどこかの段階における磨き上げの完結ではなく、命終に至るまで続くなだらかな行程と見なされている。神社の参詣になぞらえて言うなら、教育の実質は、登りの急な正面の男坂から、ゆるやかな脇の女坂へと、ふりかえられたかのごとくである。

 私たちは、女坂にいるようだ。
 そして女坂の教育は、叱咤や突き放しだけでは成り立たないことも確かだ。

心の中に「やまなみ」をつくろう

2007年03月06日 | 教育ノート
 一年生から六年生まで全員の児童が用紙に手書きした作文を、そのまま印刷して文集を作っている。
 「やまなみ」と題されたその文集の巻頭言を書いた。
 少し気取って、巻頭の詩もつくってみた。
 最初は平凡な題名かと正直思ったが、なかなか深い意味合いも感じることばだなあと考えるようになっていた。


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やまなみに向かって うたう ぼくらの大きな声
やまなみに抱かれて あるく わたしたちの強い足  

どっしりと腰をおろし 何ひとつ語らない その姿を
千年前の人たちも ずっと見上げてきた
願いをこめて 手をあわせてきた
実りを喜び 声を響かせてきた

そして 季節がくりかえされるたびに
人は心の中にも ひとつの山を描き 様々な形で残してきた
その長いつながりをつむぐため 今、ぼくらはすっくと立ちあがる

やまなみに向かって 大きくうたおう
やまなみに抱かれて 力強くあるこう

心の中に わたしたちの やまなみを つくろう

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 「やまなみ」を大切に

                         
 あまり上手ではないのですが、文集のはじめにのせる詩を作ってみました。

 みなさんが毎日すごしているこの高松をかこむように、やまなみがつらなっています。まるでこの学校の学習のようすをのぞきこんでいるようですね。
 考えてみれば、お父さんやお母さんなど家の方々も小さいころ、そんな時があったのですね。また学校という建物がまだないころの、みなさんの遠い遠い祖先の人たちも、このやまなみに見守られていたのだと思います。
 
 さて、みなさん。
 今年、どんなことをがんばりましたか。
 今年、楽しくてわすれられないことがありましたか。
 逆に、つらいことやくやしいことなどはありませんでしたか。

 そうしたことはきっと心の中に、一つの「山」を作ってくれるんだなあ、と思うことがあります。だから、この文集に名づけられた「やまなみ」ということばは、高松の自然を表していることでもあるけれど、一人一人の心の中にできた「山」が集まっていると考えてもいいと思います。

 その「山」をいっしょうけんめい考え、しっかりした字で文章という形にのこして、この「やまなみ」ができあがりました。
 だから、ていねいに読み、読んだ後は大切にしまっておいてください。

 いつか、今年の「やまなみ」がどうだったか、楽しみながら読める日がきっときますよ。

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説明を工夫するという責任

2007年03月03日 | 雑記帳
 昨日は年度末のPTAが行われた。
 どこの学校においても、会長挨拶、校長挨拶、そして生徒指導や保健関係の話が続くパターンが多いことだろう。本校も全くその通りに流れた。

 ふと、思った。

 こういう姿は、二十年前、三十年前と変わらないんだろうな…

 例えば、授業はその当時と比べればかなり様変わりしているのではないか。
 指導法も形態も、使われる機器も、子どもに対する接し方にしても、総じて見れば大きく変化しているはずである。
 それに比べて、こうした保護者との会には、あまり工夫がなさすぎのように思われる。

 役員や教員の一方的な話、それを無言で聞く保護者。
 たまに意見や苦情が出て、多少のやりとりはあっても、活発な議論は望めない。
 時間的な制限があるので議論主体にするというのは無理があるにしても、全体でそこに集まる意義ははっきりさせた方がいい。

 全体会へあまり参加したがらない保護者がいるのは、まさしくその意義を感じられないから、という表れではないか。(もちろん、また別の要素もあるのだが)

 大きく二つの点を考えていく必要がある。

 まず、会の構成や流れは現状のままでいいかという点である。
 これは、やはり役員が主体的にアプローチしていく命題だと思う。
 たぶん、会の持ち方を考えるということは、PTAの活動そのものを変えるということにつながると思う。

 もう一点は、会員全体に知らせる方法の吟味である。
 その役目を持つ教員の責任は大きい。それが、それぞれの担当に任せられていいものか、という気もする。
 例えば、生徒指導担当者の話はあるのだが、それを二人組で行うような形式を私は見たことがない。生徒指導部はあるのにその面では機能していないということだ。
 それ以前に、何をどう言えばいいか、もっと吟味されるべきかもしれない。
(もちろん職員会議で確認はするが、伝え方まではあまり論じられない)

 書き進めていくうちに、手をつけてみたいことの一つとなった。
 
 説明責任は、説明しただけでは済まないだろう。その意識をどう表面化させるかだ。

第一歩であり、ゴールでもある

2007年03月02日 | 教育ノート
 いよいよ三月。
 三学期冒頭に、まとめの時期としてぜひ「音読」は意識して実践してほしいとお願いしてきた。
 改めて取り上げることで、はっきりとした実態把握ができるし、それは今後につながっていくはずである。
 つきつめれば、やはり「読む」ことである。それを抜きには基礎学力は語れない、そんなことを書きながら思った。


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 年間6回の全校テストを終えて、今年度の「漢字大賞」「計算大賞」が各学年で決まったようです。
 繰り返し学習の必要な漢字や計算を、地道にコツコツとがんばった成果が出たのではないでしょうか。思うように成績が伸びなかった子には、時間の見直しや方法の工夫などを考え、次に備えさせたいものです。

 さて、学習の基礎とされる「読み書き計算」の「読み」の部分も、全校としてまとめをしたいと考え、各学年の国語で音読コンテスト的なことを行う予定を立ててみました。
 学年によって取り上げ方は違いますが、いずれも繰り返し読ませることは大事な活動と位置づけています。その総括として、みんなで音読を聞きあい、一人一人の発表を教師が審査して、学級にたった一名の「音読名人」を誕生させます。

 「読む」ことの学習は、いわば基礎中の基礎です。字を単に読むことから、文章を読みとる、そして声に出して伝える、様子や心がわかるように表す、といったことまで全てが「読む」の範囲です。
 音読はその第一歩であり、一つのゴールでもあります。
 単調のようにも感じますが、実は「心や身体を掘り起こす作業」に似ているのが音読です。
 小学生のうちに、とにかく多く読ませる、声を出させることは、将来いい「収穫」をもたらすための必須条件にもなると信じています。お家でも聞いてやってください。
(3/1)
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