すぷりんぐぶろぐ

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岡山へ…2 夢の生まれくる場所

2007年11月12日 | 雑記帳
 夢は、身近から生まれてくる

 今回一番印象に残った言葉だ。
 大会二日目のシンポジウムで、国際NGOであるAMDAの代表、菅波茂氏が発した言葉である。

 『夢・目標・かかわり合い』と題されたシンポジウムは、菅波氏と大原美術館の館長である大原健一郎氏がシンポジストであった。実はもう一人、先月急逝された木原美知子氏が予定されていて、地元出身の著名人という構成であった。なお、コーディネーターは主催者側から、知る人ぞ知る向山行雄氏である。
 大原氏の実に落ち着いた話しぶり、対照的とも言える菅波氏の熱っぽい口調、なかなか聞き応えがあった。

 菅波氏は自らの体験から、次のようなことを語った。

 難民の子が将来なりたいと答えるのは、圧倒的に「学校の先生」と「医者」「看護婦」が多い

 現実の裏返しとして生まれてくる夢。
 様々なことを知りたい学びたい、目の前で簡単に亡くなっていく人を救いたい…ある意味で過酷な条件にいるからこそ強く希求し、なりたい姿を思い描く。

 ふと、自分の目の前にいる子どもたちを思う。街に戯れる若者を思う。
 生まれてくる夢は何なのか。
 生死が問われる環境には比べ物にはならないとはいえ、今の子どもたちもまた情報洪水のような過酷な条件にさらされている、ことが見えてくる。
 公教育が生き抜く力をつけてやるには結構な覚悟が必要なことは確かである。

 「教育県」を標榜する岡山のお二人は、やはり地元にこだわることを強烈にアピールしたと言ってよい。
 大原氏のこのメッセージ
 全国各地の町や村はメッセージを持っている

 菅波氏のこの言葉
 Local -thinking Global-action


 「目の前」「身近」にこだわり、突き詰めてみることでしか、夢は描き得ない。両氏の言葉は具体化のためのいいヒントとなる。

岡山へ…1 集まることは力だ

2007年11月11日 | 雑記帳
 岡山市で行われた研究会へ参加した。
 全国から参集した人数は約2800人という。ずっと以前に民間団体の研究会でそんな数の会に参加したときがあるような気もするが、これだけの規模だと改めて考えさせられることが多かった。

 主管する県の準備、配慮が実に行き届いていた。
 駅からおよそ1.4Kmの会場まで100m単位で掲示板をもった係りの方が立っていて、誘導してくれる。まあ、実際はそんなに人がいなくても黒っぽいスーツを着た人の流れが方向を示してくれるのだが…。
 会場となった体育館~桃太郎アリーナという~に入ると、受付や案内板も十分だし、さらに飲み物渡しなどサービスもいい。迷うことなく席につくことができた。

 驚いたのは、バス移動である。 
 2800人が10以上の分科会会場へ移動する。徒歩で移動できるのはわずかなので、2000人以上が乗り込むことになるのではないか。それをどうこなしていくか…。
 全体指示によって、分科会ごとの参加者が時間差によって、入口を分散しながら動いていくことになる。これも実にスムーズにおそらく50台を越すバスに収まっていたようだ。一分科会につき4台ほどのバスはあるわけで、収容人数をカウントし振り分ける人も必要でそのためには列を乱さないことが必要になってくる。それもOKだった。

 ここで、いやあ改めて日本人というのはこうしたことに従順に従い、集団行動ができるものだと感心する。(他国の人がどうかということを実際は知らないまま言っているが、読んだり聞いたりしている範囲ではそうであろう)この一面をどう見るか、問題点を挙げていくことはできるが、少なくてもこうした多人数の場での効率のよさは見事だと思った。

 その会の前日、中央教育審議会教育課程部会が「審議のまとめ」を発表した。
 文科省が作ったパンフレットのタイトルはこうである。

 「生きる力」
 「理念」は変わりません
 「学習指導要領」が変わります
 

 この場での集団の動きも、それは確かに「生きる力」であろう。しかしまた今繰り返し求められている力は、もっと範囲のある柔軟性のある力でもある。学習指導要領のどこがどう結びつくか…それを考えるべきだ、などと大きなことを考えてしまった。そんな思惑をそれぞれが抱えながら、席にすわっていることを想像すると、また凄い場だなとも思う。

 この大会はセレモニー的なことも多いし、協議でも新たな情報は得られるがやや予定調和的であることは否めない。従って、正直何でこんなに集まらなくてはいけないの、というのが事前の正直な感想だった。
 しかし、参加してみて改めて考えると、集まること自体が力であること、それが整然と一つにまとまっている影響は大きいこと、それらがひしひしと伝わってきた。

祝100巻「美味」に思いをよせて

2007年11月07日 | 読書
 『美味しんぼ』のコミック本がついに100巻となった。
 もう20年以上も続いているはずだ。
 自宅の建替えのときにそれまでのコミックを処理したので、今は80巻台からしか手元にないが、発刊されれば即購入する一つとなっている。
 さらにコンビニで再編本なども買ったりする。

 さて、振り返ってみれば、出会いである第一巻の『豆腐と水』は実におもしろかった。

 二十代だったしそうした観点で食べ物を考えたことがなかった。そして社会的にもいわばグルメブームの先駆けとして名を残したといってもよいのではないか。
 現在は、100巻が『日本全県味巡り 青森編』という名が記すように、地方の食文化紹介マンガのような趣だが、それはそれで意味のあることだろう。漫画という手法も独特のよさも感じる。
 ただこれほど続くと、登場人物なり、味の表現なりはパターン化が免れず、その面では食傷気味ということも否めない。キャラクターにも変化が生じている。

 それはさておき、原作者の雁屋哲氏が書いたエッセイ等を数冊読んだことがあるが、やはりそのうんちくはなかなか面白い。「海原雄山」ファンを自認する私にはセリフの背景として興味深いというべきか。ちなみにコミック100号では雄山に「美しい国とは何か」について語らせている。

 その雁屋氏は唯一最大の趣味とも言うべき肝心の「食」についてどう考えているか。金額に無頓着に美味しいものを食べてきた結果の一言は、ここにある。(『美味しんぼ塾』小学館)

 美味しいまずいにその金額は関係ない(…中略…)大事なのは、正しい材料、料理人の正しい心構え、それを見極めること、それだけです。
 
 財政的な破滅状況に陥るほどの修業の末に得た雁屋氏の結論は、想像するより密度が濃いだろう。私も食への興味は高いと思うが、それほどの情熱は傾けられない。せめて身近な状況だけには細かい目と舌を向けたいと思う(それゆえ「身近」には嫌われるかもしれないが)。

 最後に『美味しんぼ』という造語を考えてみる。
 「おいしい」と「坊」の組み合わせであり、正確には「おいしんぼう」つまり「おいしいものには目がない人」または「おいしいものを求める人」などというところか。
 それを「ぼ」で止めたのには語感のよさだとは思うが、あえて意味づけてみれば「美味しん募(広くつのる)」や「美味しん簿(帳面・記録)」などもあてはまるかな。
 いや、それより「美味しん慕(思いを寄せる)」が素敵だな、などと遊んでみた。

 マンネリであっても続いてほしい漫画である。

子どもを光とするために

2007年11月06日 | 教育ノート
 学習発表会のクライマックスは全校児童による群読と合唱だった。観客を取り囲んだ形で行い、その後に六年生の最後の挨拶が続いた。
 終了のブザーがなり、なんとか無事に終えたなと思ったら、一人の年配の方が私の方に駆け寄ってきた。その目は涙ぐんでいる。
 私の手をとってぐっと強く握り締めてながら
「いやあ、先生。私は長い間いろんな発表会を見てきた。でも今日のは最高だったな。」
と感激の面持ちでそう言ってくれた。
 うれしかった。

 今日出した学校報には、「学習発表会、光りました」と見出しをつけてみた。
 

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 上部の三画で「火」を表し、下部の「儿」(ひとあし)は人間そのものを表します。
 「人が頭の上にたいまつを乗せた姿」からできたとされ、「火を守って神に仕える」方々が、昔はどうやら「光」と名づけられていたようです。

 字源のイメージからふと思い浮かべたのは、たいまつを手に持つ人の姿です。交通機関が発達していなかった頃、夜中に病人が出るとたいまつをかざして先頭に立ち地域総出で運んだという話があります。
 光とはまさしくそういう存在ではないでしょうか。

 むろん今はそんな時代ではありませんが、その精神だけは忘れたくないものです。
 表現することも働くことも、人のためになった時にはじめて「光」と呼べる気がします。
(11/6)
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明快さを強く打ち出す

2007年11月05日 | 読書
 道徳教育改革集団の機関紙である『道徳教育改革』第4号を読んだ。
 北海道の堀裕嗣先生も書いておられたが、民間団体の機関誌としては大変読み応えがある冊子である。

 深澤代表の巻頭言、そして特集は野口芳宏先生を始めとしてそうそうたる陣容で執筆している。
 そうした論文もおもしろかったが、それ以上に?惹かれた連載があった。

 「メンタルケアの現場より」と題して長田百合子という方が書いておられる。
 名前は見かけたことがあるが、文章を読むのは初めてのような気がする。
 あるひきこもりの青年の話の顛末を書かれているが、仕事のあり方について学ぶべき明快さを強く感じた。
 冒頭に長田氏はこう書いている。

 私のメンタルケアは学問とは一切無縁で、日本人が受け継いできた伝統に則り、一人の母親の立場に立って「親心」と「共に行動する」ことを主体にして子ども問題の解決に取り組んで来ました。

 そして「向精神薬の恐怖」と題された一節には、長田氏が経験してきたことから、こんな考えを持っていたことが書かれている。

 私は薬物を一度でも口にした子どもは決してメンタルケアにあたるまいと決め込んで来た
 
 実はこの原則を崩した事例のことが書かれているのだが、その対応の筋に強く惹かれるものがあった。

 ひきこもりの息子を持つ親に対して、既にその息子は薬を処方されているので「親だけなら」ということで塾への入会を許す。そして親の努力もあったのか、事態が好転しひきこもりから脱した息子だったが、結局三ヶ月で仕事を断念、直接息子本人が長田氏にケアを受けたいと要請してきたのだった。
 これに対して、確かに薬を服用したことがあるのだが、自らの働きかけにより出た結果に対しては断る理由を見つけられないと、潔く要請に応える長田氏。こうした責任の受け止め方には深く頷かされる。

 そしてメンタルケアは開始されるのだが、ひきこもり九年分を取り戻す本格的な訓練にはなお慎重な対応を見せて、本人の様子をじっと見守る。意識改革が進んだ頃、医師の診断を受け現在の状態に異常がないことを証明しようと思ったが、心療内科での診断結果は「統合失調症」。
 その結果と診察内容に唖然とする長田氏。こう言い切る。

 私だって心の専門家だ。そんな私の目から見て、お前が病気の筈がない。ええい、こうなったら心療内科のはしごをしよう。

 この思い切りのよさ。きっと側にいる人は元気になるに違いない。
 人を育てる仕事にも慎重に進むべき部分だけでなく、明快さを強く打ち出す場面はきっと必要だ。

 そして、心療内科のはしごは、三軒目で「白」の診断がくだされる。

形よく仕上がるのが「芸」

2007年11月02日 | 教育ノート
 「芸のためなら女房も泣かす♪」…もちろんそんな小学生がいるわけはないが、舞台に立ちスポットがあたる経験は、表現としては最高の場の一つといえるだろう。
 「芸」という言葉は学校教育には馴染まないかもしれないが、手間ひまをかけるという意味合いではつながっていると思う。
 いよいよ、明日は発表会。


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 旧字体は「藝」、もっと昔は「埶」の部分だけだったようです。木と土に人が手を差しのべている様子を合わせ作られた字です。
 「芸能・芸術」のイメージが強い字ですが、実は「草木を植え育てる」がもともとの意味で、そういえば「園芸・農芸」という言葉もあることを思い出しました。

 さて、以前はどこの学校も「学芸会」という名称でしたが、今はほとんどが「学習発表会」。いわゆる芸能的な内容から拡がりを見せ、様々な種目が増えています。
 それにしても、舞台に立つ子どもの緊張感は昔と変わらないはずで、その経験もいい学びです。
 植えられた種が育ち、形よく仕上がっている様子がスポットを浴びる発表会であってほしいものです。
(11/1)
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「道徳の教科化」はともあれ

2007年11月01日 | 雑記帳
 教育再生会議が提言した「道徳の教科化」というのは、実に面白い問題である。
 そんな傍観者的な言い方はよくないのかもしれないが、いろいろな視点を導き出せる、自分の考えを刺激してくれるという意味合いである。
 道徳とは何か、教科とは何か、そしてこの提言に対する様々な論者の意見の違いをいったいどう見るか…

 自分が目を通した範囲でみると、考えとしては四つぐらいに分かれているような印象を持つ。
 積極的賛成、限定つき賛成、趣旨はわかるが反対、絶対に反対というように。
 絶対に反対派は、そもそも特設道徳に反対している人が多い。国家によって道徳徳目を策定していくことがおかしいと言っている。また、道徳推進派の中にも「なぜ教科なのか」という点に深い疑念を持つ方は強く反対している。
 趣旨はわかるが反対、というのは教科化よりも指導法を考えよという人になる。つまり道徳推進に変わりはない。限定つき賛成は、提言内容を巡って問題化している教科書や評価の問題にある程度条件を出しているが、学校における道徳推進のためにいい「きっかけ」となると考えている。
 積極的賛成派は、教材、評価まで踏み込んでどんどんやっていくべきだという考えだ。ただしその内容や方法についてはどういうライン引きをするのか意見は様々だ。知識なのか行動なのか、何を教え、どう評価していくのかということでは違いを見せている。

 結局、特設道徳反対論者を除けば、道徳の充実を図らねばならないという点は一致しているのだが、そのアプローチには大きな隔たりがある。どのあたりに集約されて現場に下ろされてくるのか、またその下ろし方は歪まないのか、縦割り的な教育行政の中で危惧されることは多い。

 先日、勤めている市内で東北地区の道徳研究大会があった。参加者が少なかったという話を聞いた。
 道徳に関心を持つ人が少ないからではないだろう。教科の研究会でもこの頃は人が集まりにくくなっている。いや参加しにくくなっているのが事実だし、そうした刺激をうける機会が減っているのだから教員のモチベーションも下がっているのが現状ではないのか。

 道徳の充実には異論がない。充実のさせ方が問題なのだ。しかし研究会にも満足に参加できない実態が進むなかで疲弊していく教員が多くなっていく…そんな現状では、形ばかりが充実する道徳が進んでいかないだろうか。
 総花的な改革案では失敗は目に見えている。

 抜本的な改革が必要なことはまだあるのではないか。
 子ども同様学校という組織にも、「規則の遵守」や「公共心」だけでなく、「自立」や「寛容」という価値が尊重されて根付くことが大切だと思う。