すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ユーモア、品位、人間観察

2009年11月15日 | 読書
 再読シリーズの三冊目は『なんとユーモア』(高橋俊三著 文教書院)をとってみた。
 これは、実に高橋先生らしい本だと改めて思う。あのにこやかな口調が聴こえてくる内容だ。

 ユーモアの実例が豊富であるが、それだからこそ平凡な言葉で語られる原則がずしりと響く。

 要は、相手の心に、明るく、あたたかく届くこと。P71
 要は、ほんのちょっとした遠回りで、結局は本題にもどってくるということなのだ。その遠回りの瞬間の会話を楽しもうということなのだ。P78
 
 「品位」を重視する…簡単にできそうでそれは結局のところ人間性の発露になるから結構難しい。生まれ育ちもあるだろうから、その自信がまったくない自分は、せめて方法を突き詰めてみることで少しでも近づくべきか。

 著者がユーモア(語)を次の三つに整理していることが、そのヒントになるかもしれない、とふと思う。

 「ユーモア」「洒落(駄洒落)」「ジョーク」
 
 一年生などを相手に、自ら「駄洒落大王」と名乗った経験のある私はいっこうに偏ったユーモア語(そしておそらくそれが一番レベルが低位だ)に頼っていることになる。
 なんとか幅を広げたい。
 とすると言葉の綾やもじりばかりを考えないで、もっと人間観察が必要なのかなあと結論がでる。

 「ユーモア ノーモア」にならないように。
 これは冗句でしたね。(結局、もじりだ)

小ネタで温める

2009年11月14日 | 教育ノート
 落語の紙芝居を始める前に、ちょっとだけ「落語」の説明をしている。

 「落語って知っている?」という問いかけから始まると、たいてい出てくるのが「笑点」のこと。改めてこの長寿番組の偉大さを思う。ぐっと説明がしやすくなる。
 さらに三遊亭円楽の死去報道などもあって露出も多いから、着物を着て面白いことを語る人というイメージはできているようだ。

 「落語」と板書して、「落ちがある語り、話」というには簡単だが、この落ち、さげを説明するのはなかなか難しく、やはり小噺かということになる。

 「となりの空き地に囲いができたってねえ」
 「へえぇ」
 
 これではいまどきの小学生は笑えない。しかし説明!すると、なるほどという顔をする。有名な変形バージョン。

 「となりの空き地に、塀ができたってねえ」
 「かっこいい」
 
 これを言うと、「おっ」という声が出たりする。ちょっとノッテくる。

 「この帽子は、ドイツんだ」
 「オランダ」
 
 これは笑いがでる。この程度の国名ギャグがいいのだろうか。

 創作っぽい小ネタを一つ。
 「隣の組では笑いがなかった。レベルが高いのかな」などと振っておくと、気持ちがノッテくるらしい。

 あるお年寄りが、右足が痛くて医者に行きました。
 「先生、右足が痛いんですけど…」
 「ああ、それは年のせいだなあ」
 「ええっそれじゃあ、俺の右足と左足は、年が違うっていうのかい」
 
 一瞬しんとなるが、半分くらいは無理にでも笑おうとする。
 そこで、これなら適当だろうというレベルで締める。

 あるお婆さんが、ケーキ屋にケーキを買いにいきました。
 「あのう、このケーキをください。」
 「おいくつですか。」
 「わしゃあ、八十だがのう」
 
 これはどっと沸く。クダラナイ小ネタは大事だなあ。
 少し温まったところで、紙芝居開始。

 今日は「七どきつね」をやってみました。

えっ、上方落語の…

2009年11月12日 | 教育ノート
 紙芝居による学級巡りも第2クール!に入ったが、学習発表会の前後をちょっと休み、今日の4年生から再開である。
 先月購入してあった落語をもとにした紙芝居で、上学年5クラスを回ろうと思っている。

 「紙芝居 おおわらい落語劇場」シリーズをネットで見つけ、よしこれだ!と思ってすぐ注文したのはいいが、桂文我という噺家の脚本だったら上方落語つまり関西弁のようになることを考えるべきだったかな…。家へ届いてから驚く始末である。

 まあ、長く続くお笑いブームのなかで、ずいぶんと関西弁は耳にしているので、なんとか真似はできるだろうと思い直した。
 考えてみればそれが江戸落語であっても、江戸弁ができるかといえば、これだってかなり難しいわけで、その意味で「落語風」を少しでも語りに入れられれば、まあまあというところではないか。

 第一弾として選んだ「さらやしきのおきく」を下読みしていて改めて気づくのは、関西弁のリズミカルさ。
 耳慣れていることばの「ほんまかいな」「なんでやねん」はもちろんだが、「もどりまひょ」なんていい方も妙に心地よい。江戸弁にはスピードと歯切れのよさが求められると思うが、上方では速さも必要にしろ、柔らかさや抑揚表現がポイントになるのだろうか。

 漫才については上方と東京の違いなどずいぶん指摘されることがあるが、落語ももちろんあるのだと思う。発想だけでなく語感や会話のタイミングなどきっと大事になることを、頭ではわかっているつもりだが…どうなることやら。

整理は質的な変化を求める

2009年11月11日 | 読書
 『思考の整理学』(ちくま文庫)が書店で平積みされていたのは、夏頃だったと思う。

 へえーっ80年代に発刊されたこの文庫が今何のブームなのか、と思ったら、学生の間で売れているとのこと。個人的にも外山氏のエッセイなどは好きな方なので、もう一度書棚から取り出して再読することにした。

 改めて読むと、なるほど学生の論文作成にはヒントになることが多いと感じる。
 題名となっている「思考の整理」に関して、ダイレクトに記しているところが結構あってインパクトがある。

 思考の整理とは、いかにうまく忘れるかである。P127
 思考の整理の究極は、表題ということになる。P145

 こう書いてみると、情報をいかにまとめ収斂させていくかということが中心のように見える。もちろんそれが「整理」の本質でもある。ただ、思考を量的処理し精選を図ると同義ではないということは忘れてはいけない。

 質的な変化

 これを求めるために整理が行われる。
 つまり

 思考の整理というのは、低次の思考を、抽象のハシゴを登って、メタ化していくことにほかならない。P77
 
 そのためには、線的、平面的な情報に縛られないことが大事であろう。多面的、回転的?な情報が入ってくるような構えが必要だ。
 さらに、書く・読むといった脳作用を伴う反芻の仕方。触媒を求める体験、待つ時間などの重要性もこの本では説かれている。

 意識的であるなしに関わらず、自分なりの収集、整理の仕方がある。思考の質的な変化がはたして可能なのか、学生に戻った気分でちょっと見定めたい気がしている。

掘り進んでいく楽しみ

2009年11月10日 | 読書
 再読シリーズである。
 『無所属の時間で生きる』(城山三郎著 朝日新聞社)を出張に向かう電車の中で読んだ。

 こんなエッセイを書きたいと思った。
 こんなエッセイを書きたいと、ずっと思ってきた。

 人物を追っていく、心に残る場面や言葉を取り上げて、自分の考えや思いを綴る形に、憧れがあるのだろう。
 そういう内容面に加え、城山の文体が何より素敵だなと考える。解説者によれば

 城山作品に共通するあのやわらかな文体
 
 ということになるが、それは強さの感じられる柔らかさであり、文章全体に漂う品性の豊かさのように思う。

 どんなふうにしたら、そういう文体を持てるというのか。
 他者の「輝き」に向かいその心象や成立を掘り進んでいくような構えを持つことは、小説やルポタージュを書く基本であって当然のことだろう。
 それを表現するときに、独自の視点として何を持つか…こちらの方がより決定的だ。

 このエッセイに時々さらりと顔を出す自らの苦手や失敗…もしかしたらそれが秘訣なのか。つまり人間の弱さ、小ささにしっかり目を向けていること。そこに人間を探る面白み、様々な要素がつながって、その人の輪郭が出来上がっていくような…。

 「気骨の人」は、掘り進んでいく楽しみをあちこちに見つけた人だった。それが文体となっていく。

熱、いまだ褪めずに

2009年11月09日 | 雑記帳
 赤い大きなリボンをつけた年配の方が、協議の途中に発言を求めた。
 78歳だという。おそらく県の国語教育界をリードされてきた大先輩なのだろう。

 昭和63年の話だと聞いた。
 今はもうない東京教育大学の付属小で、青木幹勇先生の退官の授業が行われたという。その席にはかの倉澤国語教育学会会長と、西郷文芸研会長が招かれていて、意図的に論争が仕掛けられていたのだと語った。結局西郷氏が来ないで実現しなかったらしいが。
 青木幹勇先生が授業したのが、大造じいさんとガンのこの最終場面であったという。
 そして場面全体を取り上げたのではなく、取り上げた箇所はここであったという。

 バシッ!
 快い羽音一番。一直線に空へ飛び上がった。
 
 残雪の様子に視点をあてた指導だったという。
 その詳細については語らなかったが、この部分で授業の大半を使う指導とはどのようなものだったろうか。想像してみることは楽しい。

 夏に弘前で野口芳宏先生が授業なされたのも、同じ最終場面であったことを思い出した。
 この部分も問いかけられた。たしか、ここでのまとめは「野性」であったと思う。
 そう考えると、場面冒頭「なぜ、おりの中に入れたか」の問いから始まった野口先生のお考え…いわゆる動物文学の読み方といったことに通ずるような気がして、ますますその素材研究の深さが迫ってきたことが記憶にある。

 そうしたことも含め、いささかセンチメンタルとは思うが、年配の方の歴史を感じさせる発言に国語教育への熱のようなものを感じて、いい刺激を受けた会であった。

この並びに問題あり

2009年11月08日 | 雑記帳
 「大造じいさんとガン」の最終場面の授業では、後半に書く作業を伴う二つの発問・指示が出された。

 今の大造じいさんの気持ちを漢字一文字で表してみよう
 (今日の場面の)大造じいさんの「狩りの日記」を書こう
 
 これらの活動は、場面ごとに継続されてきたことのようであった。

 「漢字一文字」は、例の「今年の漢字」から発想を得たものだろう。私もずいぶんと以前からその手法を、授業や通信のネタ(作文)として扱ってきた。個人的に面白さを感じてやってきたことだが、はて他人がやっているところを見ると、いくらか分析的に考えようという気がわく。

 この手法は結局「抽象化」をねらうと言ってもよくないだろうか。
 「一年を表す漢字は?」というそもそもの発端となる問いでは、多くの要素を総合してふさわしい漢字が選ばれる。
 しかし、現実に子どもたち相手にどんな助言やヒントを与えるかといえば、「強く印象に残る」「何度も繰り返している」「類似したことを合わせてみる」などになる。とすると、抽象化までは届かず、具体的なものの代表というところが関の山だろうか。

 大造じいさんのこの場面でも、そういった受け止め方の子が大半だったと思う。従って、言葉として登場して「堂」「戦」が多く、それらを包括した心情的な「晴」や「喜」がわずかだったとも言える。
 もっとも事前授業をした他の二つのクラスでは一方が「再」、一方が「晴」の字が圧倒的であり、これまた進め方?担任?の違いが際立ったように思う。

 やはりこの活動は拡散的と言えるだろう。これだけ幅広い反応がでる、様々な面から切り込んでいける要素を持っているのである。

 一方の「狩りの日記」を考えると、これはある程度の分量を示して子どもたちに任せる形だから、拡散的そのものである。

 二つの活動が続くということは、昨日書いた「絞込み」「広がり」の組み合わせパターンから外れると考えた。
 従って、この並びは問題あり。というのが今の私なりの結論である。

 協議でも時間的なことの指摘があったが片方の活動だけで十分といえる。また大きくどこかを削り、「漢字一文字」から絞込みをはかって日記へという展開であれば、それもよいだろう。これが私の代案である。

 さて、協議で一つ面白い話を聴いた。これはまた明日。

「なぜ」と「どんな思い」

2009年11月07日 | 雑記帳
 青森市で行われた国語教育の東北大会で参観した授業は5年生。「大造じいさんとガン」の最終場面である。
 いい音読の声が響く学級だった。学習へ向かう姿勢が前向きだなと感じさせられた。

 さて、導入で本時の学習課題を決めるときに、子どもたちとのやりとりの中で、担任の先生はこんな言い方をした。
 子どもたちからいくつかつぶやきがもれた後、

 「『なぜ』ではなく、『どんな思い』を採用してみよう。勉強している間に『なぜ』がわかるといいね。」

 そして、これが学習課題(「学習問題」と指導案にはある)となる。

 大造じいさいんは、どんな思いで残雪を放したのだろう

 「読解で『なぜ』と問うな」という論がある。
 また逆に「『なぜ』に強くすることが大事だ」という論もある。
 この学習では、単元の初めの段階はでは「なぜ」を使っていて、後半は「どんな思い」が登場してくる。そう考えると、使い分けが意識されているようだ。

 明確に文章から読み取れるものとそうでないもの、という比較だろうか。単純にそうも言えない気がする。
 いずれ大造じいさんの心情を問題にしているわけだから、要は話し合いのさせ方やまとめ方の違いになってくるのではなかろうか。

 大まかに考えれば「なぜ」は集中、収束的と言えるだろう。一方の「どんな思い」は拡散的となるだろう。
 この二つをどういう形、流れで使っていくかが学習活動の決め手となる。
 つまり、「絞り込んでから広げる」「広げてから絞り込む」この二つのタイプのあてはめ方なのである。

 その意味で、単元全体として前者を選択したのが今回参観した授業と言える。
 それが成功したか、問題だったか。
 真面目に取り組んでいる子どもたちを見ると、一定の成果はあると見るべきだろう。

 1時間の授業の中にもその二つのタイプがあてはまることがある。そういう観点でこの授業をみると、主たる発問・指示がどうだったかまた興味深く思えてくる。

絞込みは見果てぬ夢

2009年11月04日 | 読書
 振替休みと文化の日も、発表会のフォトシネマ作りなどしていたらなんとなくそれで潰れてしまい、読みかけの本も進まなかった。
 記録によると現在80冊なので、自身に課しているノルマまであと20冊かあ…。ちょっとキツイかな。

 今年は「読み直し、読み返し」も一つ頭にあったが、それも進んでいない。時々、書棚をのぞいて選ぼうとするのだが、あまり即決できないのは、もしかしたら自分があまりいい本を選んでいない証拠ではないかとも考える。

 いや結構心に残る小説もあり、大事なことが詰まっている教育書もあるんだけどなあ、と思いつつそれでも新しい本を買いたくなってしまうんだよなあ、などと考えていたら、ある雑誌にこんな一節が…

 本は場所をとる。逆に考えれば、場所をとるのがその本質ではないだろうか。
 
 何か凄い言い訳のようにも感じるが、あるアルゼンチンの作家は盲目になったあとでも「身近にたくさんの本があることを感じるだけでも幸福な気分に浸れた」そうである。ふむふむ。
 私もツンドク家の端くれとしては、なんとなくわかるような気にもなる。まあ、文庫や新書が中心ではその思いの高さもそこそこではあるが…。

 何万冊と所蔵している愛書家?は蔵書を整理して最後は百冊に絞りたいといったそうな。
 そんな人であれば、確かに百冊の本棚は素敵だろう。

 私にとってそんな絞込みは見果てぬ夢だが、二十冊ぐらいは候補としてすぐ挙げられる本があることに気づく。

 そして、それらの本は、すぐ読み直したいような後にとっておきたいような、ちょっと複雑な思いを持つ本でもある。

どうでもいい思ひに初雪がふる

2009年11月03日 | 雑記帳
 思い出せない。

 今度カラオケに行くことがあったら、あの唄に挑戦してみたいという曲があった。
 1日の学習発表会の打ち上げで、およそ半年ぶりにそんな場所に若い人たちといったが、

 「あれれれっ、何の曲だっけ?」

 あの髪の長い男の人…ギターを持って…そんなことを言ってみても無駄。

 かなり歌いまくっている室内で、出だしを口ずさんでもかき消されて、なんのことやら。

 もちろん分厚いリストや、リモコン式のものもいじってみるが、曲名、歌手名がとんと出てこないものだから、どうにもならない。

 そういえばこの前の「ためしてガッテン」で、イメージすることが記憶力を高めるためにいいと言っていたなあ、などと関係ないことまで思い出す。それを今やってみたからどうということもあるまい。

 そのことが頭にこびりついて、もうマイクなど持つ気が失せた…。

 とんと物忘れがひどくなった、というわけではないが、こういう出来事があると齢を感じるなあ。
 いや、そんなことはないぞ。
 宴席のときにふと競馬の話題になって、トウケイニセイがライブリマウントに負けた南部杯はどちらの競馬場だったか(それにしても渋い話だ)を正確に記憶していたのは私の方だったではないか…自信を持て!

 そんな、どうでもいいことばかり思ふた振替の休みの日。

 夕方から冷え込んできて、家人は「山の方は雨雪が降り始めた」と言って勤めから戻ってきた。

 今朝は予想通りに初雪となった。