すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

充電メモ映画篇

2010年03月18日 | 雑記帳
 特に映画に詳しいわけではないが、充電の一応のながれ?としてメモしておきたい。

 『麦秋』

 昭和20年代の映画。
 小津作品の魅力は?と訊かれれば、私にとっては時代考証的な部分となってしまう。見ていて退屈だけれど、なにか不思議な魅力があることも確かだ。
 今回は、後半に「秋田」という土地名が登場し、それをめぐって原節子と淡島千影が、田舎弁を真似するところなんか、非常に面白かった。

 『野獣死すべし』

 噂は聞いていたが、今まで見たことのなかった。1980年の作品。
 これは、文句なく松田優作が凄い。狂気を描ききっている。特に終盤に追い詰める刑事と対面するシーン、御見事でした。
 鹿賀丈史もその若さが全身に漂う演技でなかなかよし。風間杜夫や岩城滉一のチョイ役に笑う。みんなそれぞれの歴史を持っているなあと感じる。

 実はもう一つ、深夜枠を見ていた。

 『集団左遷』

 1994年の作品。まあ、これはどうということのない映画だったが、野沢尚の脚本というところにちょっと惹かれた。
 野沢尚が自殺してからもう何年になるか。結構好きな脚本家の一人だった。一説には、「坂の上の雲」の脚本に手を出したことが原因とされているがどうなのだろう。
 自分という人物を生かすことはできなかったのか、命を削りながら書くということだろうか。
 脚本家こそ、様々なパターンと展開を豊富に抱えている人種なのだと思ったが…。

 と、いらない方向へ思いがとぶ。

充電メモ「楽しさの保障と質」

2010年03月17日 | 読書
 『遺伝子学者と脳科学者の往復書簡』(村上和雄・川島隆太 くもん出版)
 
 ありそうでなかった組み合わせである。
 対談をもとにこの形式での出版となったそうだ。ある程度まとまった形で論が示されるのでわかりやすい。
 私たちが意識しているようで見過ごしがちな点の指摘もある。川島氏は次のように書いている。

 「喜んで取り組む」と「自分から取り組む」を混在しないよう、注意が必要だ
 
 様々に教材が工夫されるなかで、「楽しさ」が強調されているものも多いが、それで抵抗感を減らすだけではいけない。
 次なるステップ、つまりは「多少の苦痛をがまんして」へ誘導する必要があるという。

 そして成長期にとって最も必要なことは、こんなふうに見出しがつけられたていた。

 脳活性化の切り札は親子のコミュニケーション
 
 コミュニケーションという言葉から、次の著のある部分が連想された。

 『国語科「言語活動の充実」事例』(岩下修著 明治図書)
 
 岩下ファンの一人としては今までの著書を読みきっているので、内容面で新味が多いわけではないが、宇佐美寛氏の定義をもとに、次のように章立てた箇所が興味深かった。

 授業はコミュニケーションである
 
 コミュニケーションは、ビックワードである。
 「伝え合う」「かかわり」「対話」…現場では様々な用語を使ったりするが、その意味を突き詰めているかといえば心許ない。
 もしコミュニケーションが成立しているかどうかを図る尺度があるとすれば、それは「楽しさ」かなあと思う。
 楽しいと、子どもも教師も感じられるかだ。

 その楽しさの保障、そして質の向上…言い換えれば、それが授業の善し悪しということになる。
 本で紹介されている岩下実践は、川島氏が言うところの「喜んで」から「自分から」へ取り組みがステップアップする過程を、見事に含んでいると思った。

充電メモ「覚悟と習慣」

2010年03月15日 | 読書
 『返事・挨拶の上手な子に育てる10のポイント50の技術』(山中伸之著 ひまわり社)
 
 「返事・挨拶」だけの指導に関してもこれほど内容を網羅できることは素晴らしい。
 「教師自ら挨拶する」「徹底して繰りし指導する」などはよく言われていることだけれど、その内容をどれだけ細分化できるか、これは科学ということにつながるのではないか。
 もちろんもう一つ、思想とつながるだろう。

 片々の技術から不断の心構えまで、幅広く学べる。自分なりにそれを言葉に置き換えれば、「覚悟」と「習慣」なのだと思う。

 挨拶、返事の指導が不振だとすれば、それは教師の覚悟と習慣が不足していることだ…そう言い切って間違いないと、この本からも改めてそう感じた。


 『子どもの「学び方」を鍛える』(佐藤康子・大内善一著 明治図書)
 
 以前読んだ佐藤康子氏の著作『子どもが語り合い、聴き合う国語の授業』は勉強になった。講座を受けた後だったので、指導のイメージが鮮明だったこともあろう。
 もう少し幅を広げて、学習習慣づくりも含めた形で表されたのがこの著といえる。

 まさしく教室現場で培った様々な技術が、惜しげもなく紹介されている。かつてのベテラン女教師はこうしたコツを豊富に抱えていたはずだが、それは今どうなったかなどとふと考える。

 ともかく、佐藤氏の際立つ特徴は、学び方を生かす、繰り返すことにある。それが「学習の手引き」つくりであり、子どもの発言のいいところを全体に問いかける行為である。
 そのために割かれる時間は結構大きいと思われるが、一定の期間、回数をこなしていくことで、かなり有効に働いてくることを著者は知っているのである。

 「ちょっとの心がけ」と軽く記すが、それも実は、相当な覚悟と習慣なのである。

急速充電の週末

2010年03月14日 | 雑記帳
 この週末は公私ともに何も予定の入っていない珍しい?二日間だった。

 期末の最終週があるとはいえ、もう気持ちは半分は新年度へ向かっているのが正直なところ、しかしその割に今一つパワー不足も感じていた。

 ちょうどいい充電期間か。

 とにかく読書だ。先週、丸善で買いこんできた本もあるし、以前古本屋で求めながら開いていないものもある。

 ということで、急速充電開始。この二日間で、次の五冊を読了した。


 『返事・挨拶の上手な子に育てる10のポイント50の技術』(山中伸之著 ひまわり社)
 『子どもの「学び方」を鍛える』(佐藤康子・大内善一著 明治図書)
 『遺伝子学者と脳科学者の往復書簡』(村上和雄・川島隆太著 くもん出版)
 『僕たち太陽があたらへん』(福井達雨著 柏樹社)
 『国語科「言語活動の充実」事例』(岩下修著 明治図書)

 さらに、録画していた映画を二本。

 『野獣死すべし』(村川透監督)と『麦秋』(小津安二郎監督)

 なかなか充実のラインナップである。

 映画はともかく、教育書関連はそれぞれに面白いところがあったり、考え込むところがあったりして、まさに充電できた感じがする。

 肝心なのはふりかえりと思っているが、それは今週暇を見つけておいおいポイントを記していこう。

B面の思い出

2010年03月12日 | 教育ノート
 かなり以前から、この季節になると感じていたことだ。

 卒業生の語る思い出がつまらない。いや、つまらないというよりワンパターン過ぎるのではないか。

 まず一番よくあるのが「修学旅行」、しかも「ベニーランドで○○に乗った」。次は大会入賞などのこと。そしてキャンプのこと…と本当にいくつかしか出てこないのはどういうわけだ。

 その思い出が本当に強烈だから、みんなと一緒に過ごした時間が濃密だったから…という好意的な解釈はある。もちろん、それはそれで素晴らしい。それこそ学校教育(主として特別活動)の成果だろうという見方もできる。
 
 作文の書きぶりやインタビューの受け答えがパターン化することはある意味で学習の成果だが、その内容まで同じになってしまうのはいかがなものか…しかし、そんな傍観者的な物言いでは駄目ですな。

 そこにも「掘り起こし」があってしかるべきだ。作文の学習同様、集材があり選材があるように、そういうステップを踏むべきだろう。「学年別」や「活動別」という枠、数の指定やマッピングのような方法など、もっと多彩な働きかけをするべきではないか。
 といっても小学校卒業担任の仕事の中で、それがどれほどの優先順位になるものか、ちょっと自信がないところもある。一律に望むのも酷ではあろう。

 ということで横から世話をするとすれば、そんなシートを作って書き込む形を作ろうということになる。将来的にはきちんとしたものを作りたいが、今は「設問」だけでとりあえず卒業生に書いてもらうことにした。
 考えたのは、六つの質問。

 ★小学校の中で好きな場所はどこ?
 ★あなたの小学校での一番の「ドジ」は何?
 ★学校に来て、一番にがてな時間はいつ?
 ★あなたのお気に入りの給食メニューは何?
 ★小学校で読んだ本の中で、一番心に残っているのは何?
 ★6年間で一番忘れられない勉強は何?

 まだまだ細かくできると思うが、この辺りでもその子の「味」が見えてくるのではないか。

 この返答を「一言集」としてまとめ、卒業式の日に出す予定である。
 そして自分で一番気に入っているのは、そこにつけたタイトル。

 「B面の思い出」 (さすが昭和の男だ)

その表題は思考停止を促していないか

2010年03月11日 | 読書
 寺脇氏は今年も隣市の十文字映画祭に来たのだろうか、などと思いながらその本に手を伸ばしていた。

 『百マス計算でバカになる』(寺脇研著 光文社)

 過激なタイトルである。
 「常識のウソを見抜く12講座」という副題もあり、百マス計算を取り上げたのは冒頭の1講座に過ぎないのだが、それを表題と掲げている。つまりそれだけ百マス計算という言葉が世間に行き渡っていることだと思う。

 教育コーナーに陳列されていたので、一般、親向けというより教師向けということかもしれない。寺脇研という名前の認知度もそうだと思う。ただ内容を見ると、百マス以外は現代の政治、文化、科学、マスコミといったものが取り上げられているので、やや新書っぽい。(大学での講義アウトラインということろか)

 さて、その表題について、である。
 一言で括れば「百マス計算ブーム(もう終わっているのか?)への危惧」ということになる。盲目的にそうした教材、方法を使うことは思考停止状態に陥っているのだという。
 また著者自身は「ゆとり教育」の旗手として、そうした機械的な計算練習などの価値はあまり認めたくないという書きぶりである。

 そんなことをしても多様な個性は育たない、国際化、情報化の進む社会で生き残れるのか…そうした話は繰り返し聴いてきた、読んできた。確かに総論としては肯けても、各論いや具体的なアプローチのレベルで、それは有効なのか。それが不満であったし不安でもあった。
 いうなれば、寺脇氏のそうした雑さが、本質的には正しいと思われる「ゆとり教育」を追いこんでしまった遠因のように感じるのは私だけだろうか。

 この表題も、全く逆の「百マス計算でリコウになる」も当然のごとく、百パーセントはあり得ない。

 何をねらって、どう使うか、たえず現場は考えている。
 「百マス計算」が「パソコン」であっても「ディベート」であっても「問題解決学習」であっても、それは同様であろう。
 
 だから、こうした表題の言葉はほとんど役立たずである。
 
 過激な表現が氾濫している。それは読者の関心を惹くためだろうが、結局そういう類はある面で思考停止を促しているとも言える。

明るく元気にだけでは備わらない

2010年03月10日 | 読書
 先週私用があり上京するときに、車内で読む文庫本でも思い、駅の売店で買ったのが、『遊行の門』(五木寛之著 徳間文庫)。

 『大河の一滴』以降のエッセイは、どうも書いていることがワンパターンのような気がして、この頃はあまり読んでいないのだが、たまにはいいかと思い買い求めた。

 目標達成、プラス思考、ポジィティブ…世の中の明るく前向きな姿勢に対して、それだけでは駄目だろう、後ろ向きでマイナス思考をしてもよいよ、現実に涙を流してもよいよ、と悟ったような声で語りかけてくるパターンはいつも通りである。
 しかしまたこういう文章に触れて安心できる要素も確かにあるなあと思う。自分もまた老境!ということなのだろうか。

 さて、初等教育の場にあるとき、「明るく元気に」は大きなスローガンではあると思う。子どもは本来活力があるものだし、それらを基本的に引き出すこと、溌剌さのある場所でありたいと願っている。
 ただそれだけでは成り立たないという思いはずっとあった。

 単純な明るさ、元気のよさ、それからぴりっとしたしつけが行き届いて整然としている…そうしたことを持ちあわせている集団は、どこか危うい面も持つ場合も多いものだ。
 表面的な部分ではかりしれないことの大きさなど、学校に数年勤めればほとんど感じることができるだろう。

 五木がここ数年ずっと書いていることを、そっくり受け止められるわけではないが、「うつ」も「マイナス思考」も全てあるものだというとらえを私たちは持つ必要がある。

 何か問題があればすぐそれを「○○」という病気の名づけをしたり、子ども同士の諍いにすぐ介入し解決を早めたりすることは、今の現場で確かに求められてはいるけれど、その行為は子どもや我々からどんな経験を奪っているのか、少し厳しく見つめなおす必要があるのではないか。

 少なくても「生きる力」は、明るく元気にだけで備わるものでないことは、誰でも知っているはずだから。

かくしてロボットは作られる

2010年03月09日 | 読書
 本県には「高校生ボランティア」という事業があり、三学期に進路の決まった高校三年生の希望者が、母校の小学校で10日間ほど活動する。

 先月、勤務校にも2人の女子生徒が来校した。
 そのうちの一人の子と話をしたとき、工業大学へ進み介護用ロボットの開発に携わりたいという希望を持っていることを知った。
 その時は「じゃあ私も将来そのロボットにお世話になるかもしれない」などと軽口を叩いて笑いあった。

 さて、なだいなだ氏が書いたエッセイの中に、『ロボット(R.U.R)』(チャぺック作・岩波文庫)という脚本のことが書かれていて、興味を持ったので取り寄せて読んでみた。
 1920年に発刊されたというこのSF作品は、宗教的、時代的な背景がわかりにくい部分もあるが、設定や展開そのものは実に興味深く読めた。
 
 ロボットという言葉は、この作品によって初めて使われた、つまり作りだされたものである。私たちの年代からすれば、その響きは夢、憧れであり、希望であり、明るい未来そのものだったといえよう。

 それは、例えば鉄腕アトムのような形でイメージ化されてきたのだか、今はもうコンピュータ制御によって特定の作業・操作を自動的に行う装置という意味合いの方が強くなっているのかもしれない。
 しかし、その二つがだんだんとすり寄る部分も増えてきて「人造人間」という姿は、もう目の前にあるといってよいだろう。

 チャぺックの描く世界では、ロボットが大量に作られることに人々は働く必要がなくなり、女は子どもを産まなくなった。それは必然的にどういう末路をたどるのか、想像できる。

 現実の社会と安易に比較ができないが、ロボット開発は、少なくても人間の作業・操作を楽にするためであることは間違いない。
 そしてそこには、ある不幸への道が顔を見せていることは確かだろう。
 安易に任せていいこととそうでないことがあるという線引きが、その道を完全に断ち切ってしまうとは言い難い。

 もし、人間の身体・顔に近い介護用ロボットが出来たときに、それに身を委ねることがどんな感情を持つものなのか、ちょっと今の自分には想像できない。

 そして、そのロボットを操作する人間の側が、どんな感情が溜めていくものなのか…おそらくはそうした心理的な研究も行われているだろう。人間はどんなことに反応して感情を育てていくものか、というような。

 そうすれば、どうしたって、つまらないこと、無駄と思えるようなことが大きく左右するのではないか。
 少なくても自分だったら間違いない。
 介護用ロボットで、それが実現可能だろうか…。

 こんな考えも、無駄といえば無駄なのだが。

欲望に支配されたポチ

2010年03月08日 | 雑記帳
 久しぶりに買った雑誌「宝島」の4月号を読んでいたら、ちょっと気になる表現が。

 ポチりそうな  ポチった
 
 イヤフォンをアマゾンで…といった話題なので、なんとなくこれはパソコンをクリックして購入することだなと見当をつけた。

 案の定、検索してみたら、その通りで結構使われているらしい。
インターネットスラングというところがなかなかだね、などと思いながら、いつ頃から?数年前に出た「みんなで国語辞典!」(大修館書店)には載っているのかな?などと手にとってみたら、また面白いことが。

 この意味は2006年の段階で載ってはいないが、「ぽち(ポチ)」という医療用語!があるのではないか。点滴のことである。単独では使われなくて、点滴をしながら病院内を歩くことをこう呼ぶらしい。

 ポチをつれて散歩

 うまいじゃないか。とここで思わず浮かんだのは、講談社のPR誌『本』に連載されている町田康の小説。
 「スピンク日記」と題されたその話は、作者の日常をペットであるスピンクという犬の視点で綴っているものである。
 その手法や自虐的な表現などはありがちなのだが、スピンクが主人(作者)につけた名前が秀逸。

 ポチ 

 「ポチ」は言うなれば古典的な犬の名前、昔は、犬≒ポチというくらいポピュラーであった(?)。
 犬といえば従順、主体性がなく、ご主人に逆らうことなどない…そこから生まれるイメージは被支配者か。

 そうなると、病院のポチはともかく、クリックして商品購入するポチも、あれこれくだらない物品を性懲りもなく買って失敗するポチ(主人)も、どちらも「欲望に支配されたポチ」だね、などと強引なまとめをしたくなる。

笑いも冷める「からくり民主」

2010年03月05日 | 読書
 『からくり民主主義』(橋秀実著 新潮文庫)を読んだ。

 著者の本は初めて読んだが、実に面白い。
 序章の「国民の声~クレームの愉しみ」は、アシスタント・ディレクター経験者として実に生々しく描かれているが、そういう現実に埋没しなかった発想があるからこそ、この本ができたと思われる。

 著者の視点は現場主義そのものだ。
 しかし、それは他の者が使うそれと大きく異なる。
 著者はまず「取材はいつも出遅れ」、予備知識を入れてわかったつもりのことが「現地に出向くと即座に、私はわからなくなります」と書く。

 取材拒否された経験がほとんどない著者は、現地の人々から「実は…」という話を多く聞く。
 それらが網羅されているこの本の中味は、まったく「傑作」ぞろいだ。
 つまり「からくり民主」とは、一人ひとりの国民とは別に「みんな」がつくられてそれが主役になっている、という構図である。

 それにしても、それにしても、である。
 政治や社会問題に疎い私ではあるが、あまりにもテレビや雑誌等で語られない現実が書かれている。
 驚くというより思わず笑ってしまうこともあるほどである。

 例えば、「親切運動」として電車での席ゆずりを奨励し達成回数をカウントしている高校。
 席ゆずりの回数を増やすためのコツは、「まず自分が座ること」と意欲的に語ったという。
 あの青木ヶ原樹海での「ぶらさがり」が作られた背景とその日常性。
 自然豊かなハイキングコースと勧められた中学校のオリエ―テリング大会で、死体を見つけた生徒たちが同じ臭いを求めて捜索する話など、笑いも冷めてくるようだった。