すぷりんぐぶろぐ

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何を値踏みされるのか

2010年04月04日 | 雑記帳
 野中信行先生が、今日のブログにこう書かれていた。

 1週間は、値踏みの時間である。
 子どもが先生を値踏みする時間。
 値踏みされていることを自覚して、取り組まねばならない。

 「値踏み」とは、「見積もって値段をつけること(明鏡国語辞典)」の意であるが、「評価」と言い換えることもできるだろう。

 「踏む」には、見当をつける、推測するという意がある。しかしさらに調べていくと、広辞苑に「貝、泥鰌などを足で踏み当てて捕る」という意味があって、そう考えると子どもたちが、どんな手?で(足で?)探ろうとするものか、ちょっと興味がわくような景色として想像できる。

 それはさておき、「値」とは何かを考える。

 当然、人格や教師としての力量、それらを指すだろう。
 今さらながら面白いのは、この漢字が「人」と「直」で出来ていることだ。
 そもそも「値」とは「人が、何かにまともにあう、ねうちにまともあたる」という意味からできているらしい。

 そう考えると、子どもたちへの接し方について確かに技術的なことは必須なのだが、まともにあたられても揺るがないだけの内面の大きさに思いが及ぶ。
 そうした確固としたものを備えているだろうか、そう自問してみることも時には大事だ(悩みつつ進むという意味で)。

 今、読んでいる『東井義雄 一日一言』(到知出版社)の中にこんな一節があった。これが値の違いではないだろうか、と思う。

 「喜ぶ」と「ほめる」は似ているようですが、別のものです。「喜ぶ」は全身全霊のもので、「ほめる」は口先の問題です。