すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

したことがあるという重み

2010年06月15日 | 読書
 まだ観ていないのだが、『ブタがいた教室』という映画がある。あの妻武木聰主演ということで少し話題になった。
 そのことを覚えていて手にした本だったが、これは読み応えがあった。

 『豚のPちゃんと32人の小学生』(黒田恭史著 ミネルヴァ出版)

 「命の授業900日」という副題である。
 著者が新卒で務めた学校で受け持った子どもたちと共に豚を飼い続けた三年間について、10年が過ぎてからその詳細を記したのが本著である。

 当時(92,3年頃だろうか)学級にテレビカメラが入り、ドキュメンタリーとして放送され話題をよんだらしいが、関心がなかったのだろうか、記憶がない。
 近隣の学校でニワトリのことについて同様な論議があったのは、あれも十年以上前だとは思うが、それよりはずっと以前のことだ。
 学級で動物を飼い、その終わり方をどうするか、これはいつの場合も難しい問題である(と冷めた言い方をしている自分が少し悲しい)。

 この本に書かれている子どもの文章の「明快さ」や「強さ」に惹かれる。これは、月並みな言葉だが真剣な学びの末にたどりつける文章と思った。
 数学が専門分野らしい著者が、豚を飼うことによって必要に迫られ「生きていくための算数」を実践し続けたことは想像がつく。
 この言葉は正直耳が痛い。

 「子どもたちに量感がない」とか「答を確認しない」といったことを教師が嘆きつつ、その一方で計算ドリルばかりさせているとするならば、子どもたちにとって算数は苦行の時間にならざるを得ないのである。 

 身近なことを例にしたが、全てはそのことに当てはまる。
 いったい子どもたちには何が足りないのか、どんな力をつけてやりたいのか、そのことから目を逸らさず、計画を立て、推し進めていくということなのである。

 その手段が、著者にとっては「豚」であった。

 ところが、それは手段ということに収まらず、著者を子どもたちを悩ませ、苦しめる。
 結果として、乗り越えて成長したなどと美化されるものではないようだ。こうした生命を核にした実践に対して、客観的な声は必要だが、当事者に対してはいつも無力であることは自覚しなければならない。

 著者の同僚も様々なことを言ったという。どれも正論でありながら、受けとめる側のこう問いたくなってしまうという心が「本物」ではないか。

 あなたは実際にそれを子どもたちといっしょにしたことがあるか

制約は、器と道具か

2010年06月14日 | 雑記帳
 土曜日の講座を思い起こして、もう一つ記録として残しておきたい。

 野中先生が演習・模擬授業的に示した「詩の授業」についてである。

 『夕日がせなかをおしてくる』という詩教材を示して、周囲と一緒に10分ほどの「教材研究」の時間をとり、プランを立てるように言われた。

 その後、ご自分であれば…ということで、大まかに次のような流れで指導なさった。

1 各自2回ずつ練習
2 指名して一人に読ませる。
3 その読みを○×で評価させる
4 ×をつけた子から理由を聞く
5 詩の読みのポイントについて、発問・説明していく
  「五七調」「間」「一息で読む範囲(転調?)」など
6 各自練習させる
7 指名して一人に読ませ、5点満点で点数をつけさせる
8 別の子に読ませ、再び採点させる

 指導なさった後に、野中先生は「普通、この詩は群読にするだろうが…」とおっしゃったが、私のプランはまさにその通りであった。

 ちなみに私が立てたプランは以下のようなものだった。

1 音読練習
(連れ読み→一斉読み→交代読みの三段階で。交代読みのバリェーションを豊富にして)
2 三人組を作って分担を決め、練習する
(ソロ、ペア、トリオと名づけ、題名の一行を使って例示し、その後、グループ活動とする)
3 発表会をする
(人数、時間によって形式は異なる。十分な時間があれば子供による工夫の説明、感想発表を入れる)
4 まとめ
(発表の例を引きながら、話者の違い、強調する部分について説明し、各自に読ませて終わる)

 この二つの計画の違いについて論じようとするとき、仮に対象は中学年、20~30人程度の規模と想定しても、どんな児童にどんな力をつけようとするのか、ということを明確にしない限り、突っ込んだものにはならない。

 ただ、野中先生のプランの方が指導事項が明確であり、小刻みな評価によって傍観者を生まない流れになっていることは確かであろう。いわば制約の細かさがそれを保障していることになる。

 とすれば「味噌汁・ご飯の授業」を支えるのは、中味(内容)そのものより、茶碗とお椀とお箸をきちんと使わせるかどうかにかかってくるのではないか…とまた、そんなふうに喩えだけが広がっていってしまう。

味噌汁もご飯もがんがん食べろ

2010年06月13日 | 雑記帳
 山形での東北青年塾に参加させていただいた。
 http://seinenjuku.abetaka.jp/ 

 野中信行先生のお話を直接聴くことができ、いろいろと考えさせられることがあった。
 野中先生がなぜ今「『味噌汁・ご飯』授業」を提起なさるか、という点については、先生が教員として務められた地域の実態や教員採用にかかわる現状が大きな背景になっている。
 しかしそれだけでなく先生ご自身の教職や授業についての問題意識が下地になっているのだと考えられる。

 その意味では自分も重なる部分が多いのかな、とふと思った。
 TOSSや野口芳宏先生以前の話として、水道方式や仮説実験授業という言葉をさらっと出されたのでそんなイメージを持ったのかもしれない。

 私自身の中で、かつてマニュアル的な指導の中で大きな位置を占めたは「向山型算数指導」であった。
 こうしたことが国語科でもできないものか、といわゆる「学習の手引きの細分化」といったイメージを持ってサークルに資料を出したときもある。この点についてその後進展させられなかったのだが、まだ頭の中には留め置いている。

 さらに遡れば、初めての大きな国語教育の大会で、私が発表題としたのは「『書く活動』を取り入れた授業の工夫」だったと記憶している。
 中心は「視写」と「筆答」であった。教材文を読み、その後教師と一部の子どもの応答に終始するのではなく、全員の活動を保障し参加を促すための設定だった。青木幹勇先生の『第三の書く』に触発された実践だった。
 ある参加者に「ごく普通のことを研究的に仕上げた」と評価されことが印象に残っている。これだけはというテーマやポイントを強く持つことは、他に波及すると考えてよい。

 最後の質疑応答で、野中先生が「ノート指導を入れておけばなんとかなる」と答えたのは、書く活動の有効性とともに他の要素と大きく絡まる点が大きいからだと解釈できる。

 誰でも作れる「味噌汁・ご飯」ではあるが、そこにはやはり基本が必要だ。細かく見ていけば基本にも様々な種類や違いがあるのだろうけど、それをあまり気にするのは得策ではない。

 必要なのは、我が家の「味噌汁・ご飯」ではないか。
 つまり、我が学校、学級の「味噌汁・ご飯」のような気がする。もちろんそれはどこかから仕入れなければならないのだが。
 「日常的・飽きない・栄養価がある」ものをまず食べさせることが担任の大切な役目である。

 それにしても阿部隆幸さんの発した質問は面白かった。
 私なりに「『味噌汁・ご飯』の主語は誰か」と解釈がしたが、提供する教師と食べる子どものどちらに重きをおくか、ということだろうと思う。

 目の前の子どもたちの状況にもよるが、基本的に今の私だったら「文句を言わずにがんがん食べろ!」ということになりますかな。

打ちのめされた出題者

2010年06月12日 | 教育ノート
 昨日は祖父母参観日ということで、各学年の授業参観の後に、全校で集会を持った。

 以前から音読発表が中心になっていたのだが、今年はさらにパワーアップできたところを聞いていただいたと思う。
 さて少しは交流的なものを思い、全校一斉にクイズをやることにした。言いだした私が図書委員の子どもたちに手伝ってもらいながら「みんなで羽後町クイズ」と題して10問出題した。
 結構盛り上がり、参加した家の方々にも喜んでいただいたと思う。

 ごく普通に考えられる「町の鳥」とか「一番高い山の名前」に加え、少しひねって「羽後町に住んでいる犬の数」とか「三輪地区の家の数」「一番多い年齢の人」なども取り入れてみた。
 これは大人にも意外性があるようで、出題している側からみても表情が動き、楽しく感じられた。

 もちろん低学年には難しい内容だが、三択問題なので単純に参加させてみた。
 終わった後で、子どもたちの傍にいた職員が二年生の数人が面白い会話をしていたと教えてくれた。

 「(クイズで出した犬の数とか地区の家の数など)どうして、こんなことがわかるんだろうねえ」
 「数えてまわったのかなあ」
 「一軒、一軒聞いたのかなあ」
 「でも数が大きいからねえ」
 などと言っていると、一人の子が「わかった!」と自信ありげにこう言い放ったという。

 「うわさを聞いたんだよ」

 その素晴らしい予想に、出題者は完璧に打ちのめされました。

八面六臂も一点の掘り下げから

2010年06月11日 | 読書
 『頭がよくなる四字熟語力』(齋藤孝著 角川書店)

 ここでも齋藤孝ワールド全開というか、単純明快路線、無理矢理上機嫌志向というか、まあまあ楽しくポジティブに読める本ではある。

 著者の多くの本で書かれたことの焼き直し的な部分もあるが、そればかりでなく私にとって新鮮な知識が折り込まれていることもあり、その意味では何かしらの収穫を与えてくれる。

 今回、記憶に留めたい一つは「ポトラッチ」という考え方。
 未開民族の大盤振舞を指している言葉だが、ここに見る無駄、循環、贈答といった意義の捉え方にはちょっと考えさせられた。
 「贈る」という行為は、今自分の中のキーワードになりつつあるようにも思う。

 もう一つ、「八面六臂力」の項目でなるほどと思った。
 その力の代表者として、レオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられていた。歴史上ではまさにその通りと思う。
 著者はそこで、その力を支えた、才能の根幹をデッサン力と言い切った。発明、建築、解剖、科学…全てが絵につながっているという。納得である。

 万能の天才のように見えても、一点に特別優れるところから始まる。 

 身の周りでも八面六臂の活躍をしている人にもそれは当てはまるのではないか。
 その人の根幹を見きわめることが人間理解に通ずるだろう。
 また逆に一芸に秀でることの重要性は教育上も有効な考えとなる。

 自己教育として言えば、私が欲しいのはこの本に載っている言葉でいえば、「眼光紙背力」か。

ほころびを見せる、途中点を見つける

2010年06月09日 | 読書
 『大人になるって何?』(晶文社)という本を見つけた。

 「鶴見俊輔と中学生たち」とある。つまり、老齢の思想家と中学生たちが寺子屋風に語り合った記録である。
 京都のローカル放送が企画したものらしい。それを出版するとはなかなか晶文社らしい。

 「親って何?」「先生って何?」「大人になるって何?」という三章に分かれていて、どれも面白いが、やはり職業上気になるのは二章の「先生」である。
 鶴見自身も教壇にたった経験を持つわけだが、中学生に語りかけるなかに独特の教師論が見える。

 自信のある先生は、生徒に自分のほころびを見せる。
 
 自己開示性は教師の資質としてはかなり大きなものだろうし、開示する対象が「ほころび」である場合、状況によっては生徒との距離をぐっと縮めてくれるかもしれない。
 中高生であるならば、そういう人間性に惹かれることはごく自然だし、それを感じとっている教員も多いのではないか。

 もう一つ、明確な視点が見える。

 途中点を見つける(教師)
 
 つまり最後の答だけではなく、その過程をしっかり見届け評価しているのか、ということだろう。
 それは「寄り添う」姿勢であり、これは子どもが小さければ小さいほど有効になり得る。子どもは途中点に励まされながら力をつけていくと言ってもいい。発達段階によってその頻度が下がるだろうが、それでもなくならないのが学校教育であると思う。
 努力はどんな形にしろ報われる要素があると言い続けねばならない。

 もちろん大人の仕事の多くに途中点はないわけだが、仕事を続けていくためには、そういう経験によって培われたことが大きいのではないか。

転々と日常が流れていく

2010年06月08日 | 雑記帳
 録って置いたBS深夜の映画放送『転々』が面白かった。

 http://tokyosanpo.jp/indexp.html

 この頃の三浦友和の活躍ぶり?の理由がよくわかるような作品だ。
 オダギリジョーと東京の街を彷徨う場面で流れてきた音楽に、うひゃあと思った。

 ♪おれたち、いつまでも、星屑ひろうルンペン…♪
 
 なんだっけ、なんだっけ、むかあし自分も唄ったことがあるような…エンディングロールで、「スカンピン」byムーンライダーズと判明。そうだそうだ30年以上昔だよなあ、でもいいなあ、買おう!と決心した。

 さて映画は、岩松了、ふせえり、松重豊の三人組が醸し出すどうしようもない雰囲気が最高で、些細な会話からどうしようもなく悲哀を感じさせるほどだった。

 番組終盤、延ばし延ばしになっていた同僚の「お見舞い」をすっぽかし映画のエキストラに入り込む三人の会話が秀逸。

 「どうしますう?」
 「知らないよ!」
 「まだ何も言っていないじゃない。」
 「あっ、ごめんごめん。」
 
 エンディングロールが終わった後にもこの三人の会話があるってことは、やはりどうしようもない「終わりなき日常」(笑)ということかな。

 たまたま日曜の夕刻から観始めたのだが、終わりころに主人公の心の声がこんなふうにナレーションされる。

 日曜日の夕飯が終わると、最低の時間がやってくる。
 「サザエさん」のエンディングテーマとともに、最低の時間が。
 
 一緒に見ていた家人と顔を見合わせてしまいました。

ヘンな現場人でも進みます

2010年06月06日 | 雑記帳
 小学館も、なかなか洒落た?特集をしたものである。

 『総合教育技術』の6月号が「ここがヘンだよ!学校現場」ということで、人事・組織や予算、会議、お仕事、先生などを取り上げている。

 ずっと昔から「学校の常識は、世間の非常識」という言葉があったはずだし、それこそ「先生様」の時代から教師の持つ弱さや危うさを感じていた人は多いはずだ。

 私が教師に成り立ての頃、農業をしている叔父にこう言われたことを今でも覚えている。
 「学校の先生は子どもとばかり付き合っているから、大人になりきれないところがある。」
 そんなふうな見方は確かにあったろう。
 「退職した学校の先生は使いものにならない」などと、つい最近まで言われていたような気がする。(今もそうなのかも?)

 従って、学校がヘンな組織であること、ヘンな人の集合であることはもはや自明であって、何を今さらと思うが、それを全国的に結構シェアのある雑誌で取り上げるのは、なかなか画期的かもしれない。

 しかし、いったいそれをどう読めばいいものか。

 週刊誌的に「アハハ凄い先生がいるもんだね」とか「なっちゃいないね、その会議の仕方は」と思って、自分の方が少しマシかななどと考えるものか。それとも「所詮、学校とはそんなところです」といった自虐的な心持を楽しむ?ものか。

 もちろん、「改善への提言」も構成されており、それなりに現状打破に向けた内容とは言えるのだが、「なぜ、ヘンなのか」という掘り下げが弱いように思った。肝心なところをつけ!と小さく言ってみたいが、それが大きくならないのもまた学校のヘンなところ。

 そのヘンなところを認めつつ、俯瞰しつつ、定点としての学校として(参考までに下記)進んでいくのであります。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/b5a94f6a2286ea367a7188cc0da2d7ed

伝わってくる感動

2010年06月04日 | 雑記帳
 天候に恵まれて本校4年生以下の遠足が、今日で無事に終了した。

 二つの学年に引率として同行したが、学校から離れたやや非日常的な場面での子どもの生の声を聞くのは実に楽しい。
 今回も笑わせてもらったり、驚かせてもらったり、まあまあ賑やかだった。

 印象に残った言葉の一つとして、こんな一言がある。

 「ああ感動した。でも眠たかった。」
 
 プラネタリウムを使ったミニ劇場を観終わったあとの2年生の女の子の声である。

 建前的なことばと本音の組み合わせ、その落差がおっと言わせる。
 これが「面白かったよ、でも少し眠くなったよ」程度であれば、素直な感想としか思わないのだろうが、「感動」という大げさな言葉遣いに、現代っ子らしい雰囲気を見る。

 そういうふうに使って言葉を覚えていくのだろうが、言葉の先走りが実際の中味を薄めていくような気がするのは私だけだろうか。もはや感動という言葉は陳腐なものとなってしまったのかもしれない。

 では、感動はどんな言葉によって表されるというのだろう。

 3年生の遠足のバスの中である。
 内陸部に住む子どもたちにとって、海は間違いなく一つの憧れである。その憧れが強く表される時は、まず車中から海が初めて見えたときだろう。

 国道7号線が海に近づき少し高い場所へ向かっていくとき「もうすぐかなあ」などとつぶやいていると、かすかに見えた水平線に目を大きくして、一人の男の子は叫んだ。

 「うみうみうみうみうみうみうみっ」
 
 そこには、様子や大きさや色、そして気持ちを表す単語は一つもないのだけれど、見事に伝わってくるなあと感じさせられた。

自主も民主も衰えて

2010年06月03日 | 雑記帳
 自民も民主も…ではありません。

 「自主・民主・公開」で検索したら、原子力に伴う運動スローガンのような結果が多かった。
 この三つの言葉は、かつての教育研究運動の精神を示すものとしてピックアップされたものではなかったか、と思っている。

 我が町にある教育振興協議会のことをちょっと振り返っているとき、発足当時の1968年にある方の書いた文章中に使われていた。
 また以前読んだ家本先生の著書の中にも、この三つを一種の流儀のような形で記していた文章を見かけたこともあった。

 では今、この三つの言葉にある精神が教育研究の場に生かされているだろうか。

 「自主」…強制されたものではなく、自分たちで作り上げているかということであろう。作り上げる?そんな余裕などありはしないよ、などという声が聞こえてきそうだ。

 「民主」…ここでの意味合いは、「官」に頼ることなく、ということだろうか。何が官で何が民なのか、その境目もぼやけている。存在として民の団体は確かにあるが、では民主と言えるかといえば、実態とかけ離れている気がする。

 「公開」…これは、教育研究に限らず様々な情報の公開が進んでいると言ってもいいだろう。ほとんど全てのことが公開を前提としているように進んでいる。
 ただ、先の二つが意識できないまま、いや退潮しているなかで、その公開は私たちにどんな影響を与えているのか、吟味するべきではないか。

 公開は、自主や民主の証しであった、またはそれを後押しするものであったのだろうが、今や監視と管理のためにあるようなものだ、といったら言い過ぎだろうか。

 さて、我が町にある組織も現状に照らし合わせた見直しの必要を迫られている。その視点はやはり自主や民主にはほど遠いものだ。どこかで道を間違えたのかと思うほどに衰えている印象だけが残る。

 先日、ある教育研究団体の会議で今年の大会案が示されたが、そこには流行りのテーマが並んでいても、どこか思考停止に陥っている現況、そしてそれに甘えている自分も感じられて、少し口が苦かった。