すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

持続力と想像力を携えて

2013年02月13日 | 読書
 『新卒教師時代を生き抜く 初任者一ヶ月の成功シナリオ』(野中信行 明治図書)

 「新卒教師時代を生き抜く」シリーズの4冊目にあたる著書である。野中先生の初任者指導の総決算的な内容と言えるのかもしれない。

 「とにかく1年を乗り切らせたい」という野中先生の熱い願いはこの著にもあふれているし、そのために「まず1ヶ月」と限定してみせたことは、「3・7・30の法則」と「縦糸・横糸の織物モデル」を核とするシナリオの強調点をさらに明確している。

 さて、「シナリオ」は計画案であり、行動計画であるが、第一義としては「脚本」であることは誰しも知っていることだろう。
 そう考えると、役者(初任者)はこのシナリオをどんなふうに読み、どんなふうに演じるかを想像してみたくなる。

 読み、演じる前提として三つのことは頭に入れておきたい。

 まず、シナリオ通りに行動したからといってスムーズに対象が反応するものではないという認識は必要だ。
 そして、シナリオには書かれていない動きや言葉の要求は、不断にある。
 さらに、シナリオ通りにやれない状況、外圧もあるものと予想しなければならない。

 そのうえで、このシナリオの持つ揺るぎない根や幹や枝を注視しながら読み込みたい。
 変化のある構成と相まってそれらはわかりやすく提示されていると思う。

 そして、具体的に演じるための心構えとしては…。
 とにかく、このシナリオから外れずやってみる。
 どうしても異なる点や出来ない点があったら、対立したり省略したりせずに、アレンジや別設定を考えてみる。
 「進まない」と感じたら、すばやく前に戻って考えてみる。繰り返してみる。相談してみる。

 初任者だとそういう読み方を心がけたらどうか。

 これがいくらかの経験者になると、シナリオの演じ方のバリェーションや、行間にある動きをいかに幅広く想像し、使いこなすかが焦点になるだろう。

 P116にある「『学級づくり』の指導項目一覧表」は、間違いなく参考になる。この表をチェックすることをルーティンにすればいい歩みとなるだろう。
 もっとも、それより細かいプランを「手帳」やノートに書きつける人がほとんどだろうが、それと併行して行う価値は絶対あると思う。

 システムを作り維持していくことともう一つ、バリェーションを増やしていくことが求められるのが指導の常である。
 その面では中村先生や福山先生の実践をもとにした紹介は大いに刺激になるだろう。中村実践の核は明るさ・楽しさに違いなく、これは小学校では特に必須の「空気」であり、そういう実践を選択して取り込んだことは意味が大きい。

 持続力と想像力を携えて、このシナリオを多くの人に読んでほしい。

言葉のバックボーン

2013年02月12日 | 読書
 新刊ではないが、ちょっとした必要を感じて二冊の教育関連書を読む。

 『親が伸びれば子は伸びる』(陰山英男 朝日文庫)

 久しぶりの陰山本である。そもそもは『家庭力』と題された単行本ということである。
 内容としては、子どもの学力に直接関わることはもちろん、なんと家庭における「経済的な車の選び方」までと範囲が広い。いわば「親の生き方を示す重要性」に踏み込んでいると言っていいのかもしれない。

 だから、変な話だがこの著で一番興味深かったのはわずか10ページ足らずの「文庫版のためのまえがき」だった。ここには著者自身の子育ての苦闘のエピソードが書かれてある。
 一躍有名になった状況で湧き上がってきた家族の問題への対応も含めて、「親子戦争は何度も起きました」と書いた著者は、自分が著した内容に正対しようという誠実さを抱えて、その時期をくぐり抜けたのだと思った。
 ありがちだが、この一文は重く感じた。

 子どもの心の奥底に届く言葉は、その時期のその子にふさわしい言葉でなければいけません。


 『こんな時どう言い返す~ユーモアあふれる担任の言葉~』(池田修 学事出版)

 主として中学生が対象の場面設定となるが、さすがに様子が想像される描写が十分であって、読んでいて楽しい。
 まさに「大人の階段」を上る者への声かけの技が、凝縮されている。
 基本は「大人」としての対応であるが、場面によって「同類」「同胞」的な要素を織り交ぜるので、生徒に安心感、信頼感が芽生えていくのだと思う。

 もちろん、同じ言葉だから同じ有効性を持つはずと読者の多くは思わないだろう。
 ではどういう点を読み取るか。いわゆる生徒理解の深さを求め、自分の大人としての成熟度を高めようとすることだろうか。

 例えば、この文章一つであっても、意味を飲み込み行動にしっかり移すためには、少なくない時間を要する。

 もう一つ叱ることに関してやっておきたいことは、生徒に叱られる場面を作ることである。

小さな闘いであっても

2013年02月11日 | 雑記帳
 2月初め,地元の放送局が一つのドキュメンタリー番組を放送した。
 録画してあったので,この連休中に視聴した。

 一緒に生きたい~ガクちゃん先生 13年の記録~

 番組概要は以下の通りである。

 重い障がいと闘いながら、理想の教師像を追い求める三戸さんの13年間の記録。
 潟上市の三戸学さんは中学の数学教師。生後間もなく脳性まひを患い身体が不自由になったが、3度目の挑戦で教員採用試験に合格を果たす。三戸さんの夢は、障がい者と健常者のあいだにある壁を取り払って、生徒とともに生きる先生であり続けること。重い障がいと闘いながら、理想の教師像を追い求める三戸さんの13年間の記録。


 三戸さんのホームページはここ
 
 採用になった当時,かなり話題となっていたので本を購読した記憶がある。単純な考えではあったが,三戸さんを採用した本県教委もまんざらではないなという思いを持ったことは確かである。
 それから十数年が経ち,放送にもあったように,予想されていたこととはいえ,本人自身の苦闘は続いていた。

 その中身についてあれこれ言うのは憚られる気がする。
 しかしテレビを見ながら強く思ったことがある。

 その十数年の,本県教育界(けして本県だけではないかもしれない)における大きな流れの一つと,三戸さんの存在が示す考え方のギャップは,ある面で広がっているのではないか,ということである。

 障がい者教育や支援体制について語ろうとするのではない。
 教育現場への要求の多様化,そして指導場面に入り込んでいる画一化の問題である。

 現場で行われる何か一つとっても,やったほうがいいことなど山ほどある。しかし全てをできるわけではない。そして同時に,やったことによって削がれる,育たない能力もある。そういう認識の中で優先順位が決められ,取捨選択されるわけだが,いつも多数や序列の論理でそれが決められるとしたらこわいことだ。

 ハンディを抱えている三戸さんが教室で子どもに示している姿から何かを学ぶ,そういう感性は誰にも備わっていると思う。
 必要なのは,その感性を信じて維持していく気持ちの強さ,どう表していくかと工夫する姿勢のような気がする。

「きく」は手ごたえ

2013年02月10日 | 雑記帳
 2012年最も売れた本として年末あたりに挙がっていたので,気にはなっていたが,『聞く力』(阿川佐和子 文春新書)には手が伸びなかった。
 阿川の軽妙な文体は嫌いではない。しかしなんとなく予想できるイメージが強いというかなんというか……。

 お気に入りの連載「とかなんとか言語学」で,橋秀実がそのミリオンセラーの読後感をこんなふうに言う。

 全体的にホステスの心得のような印象

 なあるほど。うまいことを言うなあ。
 ビジネス書で関連の本を読んだときのことを思い出せば,確かにそんなこともある。よく「超売れっ子ホステスが教える聞き上手のコツ」なんていう本もあるくらいだから,当然なのかもしれない。

 橋の連載の内容は,別にその書評ではなく,「きく」ということの本質について述べている。実に興味深いことだ。

 特に面白いのは,古語辞典などから得られたこととして紹介してあることだ。
 「きく」には「聞く」「聴く」「訊く」があり,それらが同系列であることは簡単に理解できる。
 ところが,それ以外の「効く」「利く」も同源らしいというのだ。

 『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)によると,次のような意味を共有しているらしい。

 「神経を働かせて物事の感じを試し,その手ごたえがわかる」

 この意味で括れば,確かに直接言語をつかって「きく」ことも,そうでない場合の「きく」も該当するようだ。

 子どもたちに教える場合も,たしかに「うなずき」を一つの技術として示したりする。
 それはそういう動作は応答の一歩であることを強調しているのだが,肝心なのは「神経を働かせる」ということであり,そういうことを時々確認しないと,やはり小手先だけになってしまうなあ,と改めて感じる。

 「きく」は「手ごたえ」のことと解すると,実に明快になってくる。

作成ソフトと格闘事始

2013年02月08日 | 雑記帳
 学校のホームページをどうしようかと考えていたのだが、やっぱりやろうと思ったのは秋頃だった。
 もちろん現在もあるにはあるのだが、ここ数年間更新されていない。ネットワーク環境が変わったことが大きな原因で、現状ではサイトにアクセスできない状況があるからだ。
 もちろんPCに堪能な職員もいるから、環境さえ便利であればそんなに苦もなく実行できたのだろうが…。
 保護者からのアンケートでも指摘があった。
 学校報だけでは少し物足りなさも感じていたので、まずは取りかかってみようと決断した。

 そのための段取りとして、一つには新しいソフトの購入。そして市教委へ連絡しそのソフトのインストール許可を受け、業者(管理者から委託を受けて)による作業を待たなければならない。
 12月にはそこまで段取りしたのだが、結局何度かお願いして、業者によるインストールが終わったのが、先週末の夕方だった。

 月曜日。
 気にはなったが、午後から通院のために年休をとることもあり、全然手をつけることができなかった。明日から一定の時間を割いて取り組んでみようと決意する。

 火曜日。
 今日は午後から会議があるが、朝のうちに学校報などを仕上げたので、2時間ほどは時間がとれそうだ。
 初めてビルダー17の世界へ飛び込む。
 ううむ。様々な機能がついているが、個人で作成するものではないので制限が多く、なかなか苦労する。今日はとりあえずいじってみる程度でと思いながら、あれこれ確かめるだけ。結局何一つ完成できない。

 水曜日
 今日から評価面談。これは午後なので、昨日と同程度は時間を割けるか。
 マニュアルも読まないし人にも訊かないので、まったく自力でチャレンジ。気楽なよさはあるが、やはりどうしても解決できない点があると、その障害を飛び越せず、別のことに移ってしまう自分の散漫さが顔を出す。
 それでも昨日からは若干の進歩がある。トップページと主要なページの「同期」なども覚え、ほんの少し前進している。
 道は少し明るくなった。

 木曜日。
 来週に評議員会、入学説明会があり、その準備等で午前を過ごす。
 午後から、面談が始まるまでの間で、昨日からのさらなる前進を目指す。また2時間ほど。
 毎日更新をするのなら,写真ページをスマホ対応にしてみようと思いつく。
 何度かやっているうちに、作成手順がつながってきた。いいぞ。
 新味を出せる要素が加わったからか、しみじみとした嬉しさを感じる。珍しい感情だ。
 明日はもっと前進できるかな。

 金曜日。
 午前は来週に予定されている教育懇談会資料、さらに入学説明会資料(これはPPTで新作成)にかかりきりとなる。
 午後は教委に行く用事があったり、休んでいた職員が復帰したりで、まとまった時間がとれないが、慣れる意味で起動させる。
 新規ページを開いてリンクさせることはできたが、位置がなかなか動かせない状況で、またイライラ感がつのる。今週はこれまでだ。

工場で紡がれた言葉

2013年02月07日 | 読書
 『短編工場』(集英社文庫編集部編)

 冬休み中に読み始めたと思うが、遅々として進まなかった。
 短編はぱっと読めるけれども逆にぱっと止められるので、中編、長編に比べれば続けて一気にとはいかない。便利でもある分あまり懐かないという感じなのか……。

 さて、この文庫は12人の著名な作家が、文芸誌『小説すばる』に発表したもの(その後単行本に収められているものも多い)である。2000年から2008年が初出となっている。
 半分程度の作家は読んだことがあるし、個人的にフェイバリットとしている作家もいる。
 しかし読了して改めて思うのは、総じて「流行作家」それも直木賞、同候補の方々が多いのだが、素材が似通ってきている(どこかで読んだという意味で)なあということである。

 そんなに小説読みでない自分が、そんな単純に言っていいかという気もするが、なんだか飽き気味ということもあるかもしれない。


 さて、そんななかで目を惹いたのは、乙一という作家の著した『陽だまりの詩』という作品。
 「アンドロイド」(?)とそれを作った「人間」の心の交流を描いたもので、それ自体はよく取り上げられる内容でテーマも珍しいとは言えないだろうが、設定の独自性や文体に特徴があり、面白かった。
 「死」を焦点化し、それに対する恐怖がどうして生ずるかを考えるとき、「心」のどの部分の感情が最も対象となるか…あまり考えなかったなあと素直に思った。
 この文の意味を考えられただけでも価値は大きい。

 愛と死とは別のものではなく同じものの表と裏だった


 最後に収められた『約束』という村山由佳の小説は、子ども時代の仲良しの子の病気と死をめぐって、仲間と一緒にタイムマシンづくりをする主人公の葛藤と成長を描いた作品だ。
 重松清が書きそうな内容で、このタイトルだとこうなるだろうと予想してみたが、少しずれた結末となり、さすが作家殿ですなあと思った。

 何気ない一言だが、友達の隣のベッドの「おっさん」が、名文句を語っている。

 「不公平」ってのはもしかして、「人生」ってやつの別の呼び方じゃねえか

 大人になった主人公が、現状を語る一言に、対応することばがある。

 なるほど、人生は不公平というか、案外公平というか。

 具体例も出さずに、こんな言葉遊びのような引用をしても仕方ないが、これに関わる実例なら、周囲を見渡せば腐るほどあるだけに、その必要もあるまい。

 ちなみに、たまたま読んでいた雑誌で見つけた一言が、今の時点の自分の感覚に一番近いかな。

 人生は不平等だが公平だと思う。

 短編でも長編でも、小説の工場で紡がれる言葉の中にはいろいろなタイプがある。
 
 愛用できる品選びをしているみたいだ。

「教えてうまくなるやつはいない」という真実

2013年02月06日 | 雑記帳
 ある新聞のコラム、例の体罰関連のことが書かれているなかに、次の言葉が引用されていた。

 「教えてうまくなるやつはいない」

 インパクトのある一言だ。
 野球評論家、権藤博の言葉である。
 監督、コーチ時代に選手の自主性を尊重した指導に定評があった。それはけして小手先の技術ではなく、強い信念に支えられていたものだろう。

 学校教育とプロスポーツを同じに見ることはできないが、私達の仕事においても、十分に噛みしめるに値する言葉だ。

 初等教育について言えば「教える」ことこそ基本であることは言うまでもない。
「教えることをためらうな」「わからなければ教える」…当然のことを当然としてやっていくべきである。

 しかし、教えてできることは、極端にいえば、なぞっただけ、まねただけのレベルまでと言ってよかろう。
 繰り返したり、馴染んだりすることによって、使いこなしができるようになり「うまくなる」。
 そのためには、何よりも自分の気づきや関心、意欲といった内部のエンジン駆動が必要であることは、教育者であれば誰しも認めるだろう。

 その部分への働きかけを「育てる」と言っていいのかもしれない。

「教え、育てる」という両輪のバランスは、一般には発達段階によって違ってくるものだろうが、それと同じ、いやそれ以上の比重で指導する側の考えによって大きく左右される。

 ただ、いずれにしろ「教える」には限界があり、どこまで教えられるかという見極めを持つことこそ、指導者としての大きな条件なのかもしれない。
 それは、「育てる」ための働きかけをどう充実させるかという努力と表裏の関係にある。

 体罰がその方法としてふさわしいかどうかは、言わずがもな、である。
 問題の指導者たちにとっては、おそらく自分が教わる側だったときに、その方法が自身を「育てた」という経験(もしくは錯覚)があり、それが継承されたということに違いない。
 そういう連鎖が脈々と続いてきた状況を見過ごしてきたのは、けして○○界という限定されたものではないだろう。

 この国の歴史的な文化と、人のエネルギーの伝わり方という二つの課題がうっすら見えてくる。
 これは大きな教育の課題とも言えよう。じっくり付き合ってみたい。

 ともあれ、「教えてうまくなるやつはいない」という言葉の重みをもう一度噛みしめるとすれば、私達が子どもに「上手になったねえ」「わあ、すごい」「完璧にできてるじゃないか」などと声をかける場面は、どのような経過によって訪れるかをしっかり振り返ることによって確かめられると思う。

冬の青空のような

2013年02月04日 | 雑記帳
 昨日の日曜はPTA主催の冬まつりが行われた。
 節分ではあったが,朝は結構荒れ模様の天気で心配した。

 しかし,いつの時にも子どもたちは元気で,会が始まるのでかまくらに入ったり,雪の滑り台で遊んだりとさすがに雪国っ子たちであった。

 グループごとに「雪積み競争」(制限時間内での高さを競う)や「雪玉?競争」(大きさと球の美しさを競う)「的当て競争」などがあった。後はスノーモービルで引っ張るゴムボートに乗せてもらったりして,大はしゃぎの半日を過ごした。

 厳しく風が吹いた時もあったが,青空が見えたりして,まずまず恵まれたイベントになったと思う。

 PTA役員の頑張りに感謝しながら,こうした集会的なことがだんだんと出来なくなっている学校教育の実態を改めて考えた。

 体験的な活動の重視と言いながら,現実は縮小傾向であることはほぼ間違いない。
 最近もある活動のことが会議の話題になったが,これ以上の削減については同意しかねるので意見を述べた。
 普通の授業と異なる準備等の難儀さ,安全確保に対する綿密さの拡大など,以前ほど単純に取り組めない事情があることは確かだ。

 それらをクリアしていく工夫が求められると同時に,やはり体験的活動の持つ価値について再考していく必要があるのだと思う。
 子どもが身体で感じることの重要性を「そりゃわかるけどね,現実は…」といった一言で退けてしまわないように,自分自身の内部に注意を向けていないと,危い道に逸れていきそうだ。

 おっとっと,実は暦上は「春」になったので,この冬の青空の写真のことについてぼやっと語ろうと思ったのだが,(こちらに写真をアップ)なんだか脱線してしまった。
 
 けれど,考えると夢中になってやる体験がもたらす爽快感は,冬の青空にどこか似ている気もする。

えてしてそういうもの

2013年02月03日 | 読書
 訪問するサイトで話題になっていたので、購読した。

 『まともな日本語を教えない勘違いだらけの国語教育』(有元秀文 合同出版)
  
 著者と直接の面識はないが、長く国立教育政策研究所に勤めておられたことは知っていたし、二、三度話を聞いたような記憶がある。
 言語技術教育に関わる研究者として、主に読書教育の面からのアプローチが多いという印象を持っていた。

 また確か一昨年だったと思うが本県の何かの会で、いわゆる「学力日本一」に関する批判めいた意見を述べたということを聴いた。本著のなかにも、少し関連している記述もあった。

 著者は前書きにおいて、「本書は私の卒業論文である」と記していた。

 私は、正直こんなものか、と思ってしまった。
 著者が提起している国語教育の問題は、確かに鋭い指摘ではあるが、そして自分も納得できる点も多いことは認めるが,どこか「言いたい放題」の感を拭えない。

 公的な職を辞したので、思いきった本音を吐露したのだろうし、それは我が国の国語教育、この国の未来を思って提起しただろうことはわかる。
 また、問題の核心をずばりと言い切る痛快さもある。

 だが読み進むにつれて、すっきりした気分になる本かと言えば、それは逆だった。
 痛快な批判の対象のなかに、自分も含まれているからというわけではない。

 変えなければいけない点などは多くの教員が承知していることではないのか。そのための筋道もある程度は見えているのではないか。
 しかしその歩みの遅さや効果の無さに歯ぎしりしている現実があるのだと思う。

 著者はヒントは出したというかもしれないが、私にはそれが読み取れず「作戦は任せる」と突き放された感があるという印象を持ってしまった。
 細かい部分に関しても「政治的中立」と問いの中身のこと、例文の挙げ方の妥当性などいくつか引っかかりを感じた。
 もしかしたら、一冊に仕上げるための内容選択や構成の問題があるのかもしれないと、生意気なことも考えてしまった。

 ただ、最後の「ブッククラブ」の章は実に興味深く読んだ。
 特に目新しいことが書かれているわけではないが、「問い」について分野わけがされている。
 12月の花巻での会以来、「発問」については、野口先生の指導なさる枠組みとは違う観点を自分が持っていることを確信し、その点を整理していくためのヒントを得たような気がした。

 総体的な印象はけして良くないが、時期をおいて読むと違ってみえてくるのかもしれない。卒業論文とはえてしてそういうもの。

アクションを示す月として

2013年02月02日 | 雑記帳
 2013年もひと月が過ぎた。

 私事があって年越しを京都で迎えた新年だ。
 (そのときの写真はこちらへ
 
 自宅外の年越しは,大学時代も帰省していたし、おそらく生まれて初めてのことではなかったかと思っていたら、小学5年の冬、入院していたんだったなあ、あれは正月を挟んだかどうか……ただ、仙台から帰ってきて乗ったタクシーの窓から見た雪の壁の高さをまだ思い起こすことができる。昭和40年代の話だ。

 さて、それはともかく、三年続きの豪雪となった一月。
 県都秋田市の除雪の悪さが喧伝され、積雪地帯であるこの地域はそんなに支障なく、もちろん溜息は多かったが、乗りきれたと思う。

 中旬からスタートした三学期は、最初体調が悪くて大変だったが、そんな中でも、まずは粛々と?仕事をこなし、学校報3号、校内報3号もどうにか発行できた。
 (校内報はここに収めた
 
 しかし、児童のみならず体調を崩す職員が増え、小規模の職場としては結構やり繰りが大変な後半となった。
 おかけで、スキーを履かないスキー焼けの顔となった。

 このブログのメインとしている読書の方は、かなりネットでの注文図書が多くなって書棚を飾っているが、読み切れていない本が溜まってきている。
 (読書記録はここに
 
 読書ペースは通常だと思うが、休日にどうもあまり手が伸びないのは、やはり雪疲れか。

 ともあれ、いわば「勝負の二月」。

 これは来年度を見越したときにアクションとして示す必要のある月だといつも思っている。

 残念ながら外への研修にはいけないけれども、自分に課してあることを的確に処理する期間としたい。