すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

I was bornの詩人,逝く

2014年01月21日 | 雑記帳
 あれからもう何年が経ったのだろうか。

 電車の中で一緒になった(たまたまだったか、連れ立ったのかもう記憶はないが),先輩教師から、こう問われた。
 「誰の詩が好きなの?」

 「えっ、ええ吉野弘とか。」
 学生時代にゼミなどでちょっぴり詩をかじった程度で、難解な現代詩からはとう脱落していたが、平易な表現でイメージさせていく吉野弘には正直惹かれていた。

 「そうかあ、そりゃあいいねえ」
 と自ら詩集も出しているその教師は、にこやかに笑ってくれた。その後、少し詩論などを聴かせていただいたのだろうか。



 小学校勤務では吉野弘の詩を教材にするにはなかなか難しく、取り上げた経験はない。しかし、PTAか何かで「奈々子に」という詩は紹介したように思う。
 三連のこの部分は、娘の父親になったばかりの心にとても響いたし、同時に自分自身を見つめ直さなければならなかった。

 唐突だが
 奈々子
 お父さんはお前に
 多くを期待しないだろう。
 ひとが
 ほかからの期待に応えようとして
 どんなに
 自分を駄目にしてしまうか。
 お父さんははっきり
 知ってしまったから。



 平成4年に勤務している地区で国語教育の全県大会が行われた。
 その大会の記念講師が、かの詩人だった。

 そして、その講演がたしか90分の予定だったと思うが話が止まらずに40分以上も延びてしまったことがある。
 詩人とはかくも自由な精神の持ち主かと、変な感心をしたことも覚えている。
 終了後のレセプションで、某氏より「ああいう場合は事務局長として責任を持って止めなくちゃいけない」ときつくお叱りをいただいたことも懐かしい思い出だ。


 90年代初めぐらいまでは詩集のほかにエッセイ集なども読んでいたように記憶している。
 それ以降はほとんど書棚の本も紐解くことはなかった。しかし数年前、たまたま文庫本の詩集を見かけ、懐かしく立ち読みした後買い求めたと思う。


 訃報に接し、改めて読みかえしてみる。

 「祝婚歌」「夕焼け」というあまりに有名な詩とともに、かの「I was born」が甘酸っぱく迫ってくる。
 と同時に若い頃とはまた違った感覚でとらえている自分も感じる。


 I was born …詩人は、その意思をどこで表したのだろうか。

 合掌。

三嘆

2014年01月20日 | 雑記帳
 【三嘆】(さんたん)

 いくたびもなげくこと。いくたびも感心してほめること。(広辞苑)




 感心するという意味で「一読三嘆」という使い方がある。

 誉め言葉として,なかなか味のある表現だと思う。

 もちろん,結果や評価としての言葉なのだろうが,行動,姿勢として「三嘆」を心がけることもよくないか。

 三つ誉める,三ついい所を見つける…対象に向けてでもいいし,「日々三嘆」ということでもいいと思う。

観照

2014年01月19日 | 雑記帳
 【観照】(かんしょう)

 対象を、主観を交えずに冷静にみつめること。(広辞苑)




 ある冊子に書かれてあった言葉…「現実は問題ではない。どう解釈するかだ」

 たしかに、たしかにその通りと頷いた。

 現実がよいかどうか、結局決めるのは自分の主観でしかない。
 要は主観の方向、つまりはものの見方によって、現実はどんな評価にもなり得る。

 現実を変えるより、主観を変えた方が合理的?ということか。

 苛立ったり、嘆いたりする前に、ひとまずよく見つめるという習慣があれば、解釈にも余裕が出るだろう。

信賞必罰

2014年01月18日 | 雑記帳
 【信賞必罰】(しんしょうひつばつ)

 賞すべき功績のある者は必ず賞し、罪を犯した者は必ず罰すること、賞罰を厳格に行うこと。(広辞苑)



 子どものしつけにはこの考えが不可欠だと思うが、「賞」だけに重きが置かれている風潮がある。

 「賞」だけが具体的に与えられ、「罰」は脅しだけの言葉で終わったまま成長している子どもが多いのではないか。

 むろん「罰」に極端な重きを置くことは、おそれやおびえが先に立ち、自立には結びつかないだろう。

 しかし、しつけの手段としての信賞必罰が、一方では社会の場にあってもルールでありシステムになっていることを考えると、今の傾向は現実への対応力を養っていないと判断するべきだろう。

想像して,考えを深めること

2014年01月17日 | 読書
 「2014読了」6冊目 ★★★

 『完本 日本語のために』(丸谷才一 新潮文庫)


 一昨年に没した著者の本は、以前にも1,2冊は読んでいると思う。
 「国語教科書批判」の内容についても若干の知識はあった。

 しかし著者がここで語っている「国語改革」「国語教科書」「入試問題」等への批判に対して、現在の私には根拠をもって賛否を明解にできるほどの力はない。
 ただ、各論の部分では、今さらながらひどく納得できることも多かった。

 例えば、私も漢字配当表に関してはとらわれずにどんどん使い、教科書にもルビつきで載せた方がいいと考えている。
 その根拠の一つとも言える次の文章は、当たり前すぎて今まで気がつかなかった。


 大人だつて子供だつて、振り仮名つきで読めるだけの漢字、読めるが書けない漢字、読めるし書ける漢字の三段階があるのは当たり前なのである。


 さて今、改めてそれらが収められたこの文庫を読みとおして(正直、読み取ったというレベルまではいっていない)感ずるのは、やはり自らの浅学と想像力の乏しさだ。
 非才であることを自覚してもっと鍛えるべきだった、と今さらながらに反省させられる。

 下に挙げた風景は一瞬想像できたとは思うが、その意味を持ち続けて考えを深めようとしなかった。


 明治大正のころの日本人ははなはだしく無口だつたし、ものを言はないで黙りこんでゐる代り、よく泣いた。


 こうした風俗の視点であっても、歴史と言語という切り口で思考は深められる。
 それまでの時代に使われていた言語の特徴が浮かび上がってくるし、その中でどんな言語文化が花開いたかも想像できる。

 また、戦後の制度改革とともに自由な気風が育てた精神のあり様と、言語との結び付きの強さは、やはり大したものだと納得できる。


 音読や黙読について言及しているところも興味深かった。
 黙読による読書習慣の広がりについて、それ以前のことをこう分析してみせる。


 かういふ音読の習癖は、誰かに朗読してもらつてそれを聞くのが読書の普通のかたちであつた状態の痕跡にちがひない。


 これも単に読書形態や読書速度を問題にして解釈するだけではない。

 
 音読的=非散文的な社会に生きてゐたといふことであらう


 なるほど、なるほど…ということは…と考えがひろがる。
 ここには「言語道具説」を乗り越える、明確なものの見方がある。


 解説を書いた大野晋氏の次の一言は、心したい。
 
 言語を、伝わればよいと考えるところに、すでに精神の荒廃がある。


 拙文に、格調は求めるべくもないが、せめていい加減とは言われたくない。

直心

2014年01月16日 | 雑記帳
 【直心】(じきしん)

 純一無雑ですなおな心。(広辞苑)




 仏教で使われる言葉で、禅語として「直心道場(じきしんどうじょう)」がある。

 「素直な心さえあれば、その場その場が修行する場となる」といった意である。


 齢を重ねるたびに失われていく心持ちであることは認めざるを得ない。

 しかし、もし一面では、寛容さや俯瞰的な見方を少しずつ身につけてきているとすれば、自己の様々な面を見つめ、直心的な場は探しだせるだろう。


 一途とは違った意味で、そういう場を楽しめればいい。

根問い

2014年01月15日 | 雑記帳
 【根問い】(ねどい)

 根元まで掘り下げて問いただすこと。どこまでも問うこと。(広辞苑)




 始業式で最初に問いかけたのは、「正月は、どうしておめでたいのか」。

 そこから、元号の話や「新しい」という言葉の意味につなげてみた。

 一つの問いを持ち、それを「どうして」と続けていくのは、子どもの好奇心発露の典型でもあるが、それはつまるところ際限のないものだ。


 どこで区切りをつけて、収めるか。それがあらゆる話の構成のもとになる。

 といっても、問いの連続が一つや二つでは深まりはしない。

 最低ラインは三つかな。根の一部は見えるところまで。

新陳

2014年01月14日 | 雑記帳
 【新陳】(しんちん)

 新しいものとふるいもの。また、新しいこととふるいこと(広辞苑)



 言葉として「新陳代謝」はよく見聞きするし、意味もわかる。

 「代謝」のみでも同義といってよい。となると「新陳」とは何かと気になった。

 調べると「陳」には「ふるいものごと」を指す意味がある。しかしそもそもは「ならべる、のべる」だということを考えると興味深い。


 つまり、並べられていたり、すでに述べられたりしていることは、すでに古い。

 新年を迎え、今日が三学期のスタートの日。
 「新しい」をテーマに少し話したが、目の前の並べられたもの、前に述べられたことを見直したり、疑ったりしてみなければ、代謝はできないということか。

固有名詞を入れて語る品質

2014年01月13日 | 読書

 「2014読了」5冊目 ★★★

 『下町ロケット』(池井戸潤  小学館文庫)
 

 言うまでもなく直木賞受賞作。
 文庫化で店頭に並んだ先月に買い求めておいた。

 悪天候で飛行機が飛ばず出かけることが出来なかった連休,それじゃあじっくりということで読みはじめたら,あっという間に読み切ってしまった。

 さすが企業エンターテイメント小説の雄。読ませるなあと思った。
 話の展開そのものは,自称ドラマ通の読み手にとっては結構予測通りであったが,それでも業務や経営に関するディテール,人物描写などが上手で,惹きこまれていく要素十分だ。
 半沢直樹ファン?も唸らせるだろう。


 主人公の経営する佃製作所はもちろん架空の会社であるが,こうした高い技術力を持った日本の中小企業は多いはずだ。
 以前放送されたNHK連ドラの『梅ちゃん先生』との舞台として取り上げられた蒲田やその周辺のイメージが湧く。
 そこでもネジやシリンダなどの部品生産に情熱を傾ける人々が描かれていて,国の工業発展を大きく支えたことが物語られていた。

 この小説の一つの山場となる,大企業帝国重工による佃製作所への評価テスト場面は,国全体の構造的な問題が横たわっている。
 しかし,それを乗り越えさせたものは,やはり現場に生きる者たちの矜持である。
 これに類するドラマはきっと,現実にもあっただろうし,多くの人の共感を呼ぶのではないか。

 なにしろ,あまりに格好いい言葉が製作所内に掲げられている。

 佃品質  佃プライド


 かつて,熊本でTOSS流の学校改革を目指した吉永順一氏は,地方にあっても我が国の町工場の持つ高い先端技術力に大きな敬意を払い,そうしたイメージで学校づくりを進めていた。

 「○○品質」と固有名詞を入れて語れるほどの仕事は,業種は違えどやはりとても魅力ある響きだ。

 その実現にどんな要素が必要か,エンタメと言ってもこの小説の中に過不足なく盛り込まれているような気がする。

経済

2014年01月12日 | 雑記帳
 【経済】(けいざい)

  国を治め人民を救うこと。
  人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、並びにそれを通じて形成される人と人との社会関係の総体。転じて、金銭のやりくり。(広辞苑)



 愛読誌『のんびり』が、郷土の偉人である石川理紀之助を取り上げた。

 恥ずかしい話だが、今頃になって多くの知識をそこから得た。

 石川理紀之助翁の「経済の言葉 十四ヶ条」は、百年を隔てた今でも実に輝きを放つ、珠玉の真理だ。その一つめは…。

 「寝て居て人をおこすこと勿れ」(何事も自分が率先して行え)


 「経済、経済」と口を大きくしている人たちは、率先して人民を一人残らず救おうとしているか、ってことだよね。