すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

『考える人』から考える②

2016年05月04日 | 読書
 『考える人』2016春号


 特集名は、「12人の、『考える人』たち」である。
 エッセイ、インタビュー、対談で、全部で9つの記事である。
 そのタイトルを挙げてみる。

★濃霧の中の方向感覚
★わからないぐらいがちょうどいい
★新しき原点
★“メディア変換”しながら世の中に一石を投じる
★成功を再定義しよう
★「社会の生意気さ」の背を押す
★生命の「かたち」を考える
★「チューリング部屋」をつくる
★「知のサヴァイバル・キット」を更新せよ!



 いずれの著者、論者もそれぞれの分野の一線級で活躍している。
 哲学、芸術、政治、科学、経済…自分の仕事と立ち位置で語っていることは、やはり閉塞感ある現状と結びつくことばかりである。

 その受け止め方は、当然ながら専門分野や年齢などによってまちまちである。
 
 しかし共通項は、絶望していないということだろう。

 つまり、絶望しないやり方はいくつもある、そのための思考を、そして表現を!という結論づけになるか。


 筆者の中で最高齢(おそらく)の、染織家志村ふくみはこう語る。

★「量」の脅威は迫っています。(中略)「質」の世界の良さをちゃんとわきまえた職場、生活を保つようにしなくてはいけない。


 一番若いだろう最果タヒという詩人は、こう書く。

★人が、自分とはまったく人生を過ごしてきたんだということを、大切にしたい。100%の理解なんていらないし、したくもないんだ。


 この二つの思いはギャップがありそうで、根底のところで深く結びつくのではないか。
 つながり、絆、共感…そうした言葉を安易に使わず、表面的なやりとりに走らず、自己と周囲を見つめ直すことが肝心である。


 哲学者鷲田清一は冒頭の「濃霧の中の方向感覚」において、私たちの「塞ぎ」の理由を探り、「制御不能なもの」に対する、身構えを繰り返し述べている。

★じぶんたちの社会の初期設定を点検することから始めると言ってもいいし、日々の暮らしのフォーマットを換える、ギアを入れ替えると言ってもいい。


 そのために必要ないくつかを挙げているが、最後に鶴見俊輔の言葉を引用しながら、次のように締め括っている。

★「間違いの記憶」をきちんと保ちつづけることが大事なのだ


 いくつもの間違いをしてきた。

 一つ一つ、その大きさを吟味しながらフォーマットを点検しなくてはいけない。

『考える人』から考える➀

2016年05月03日 | 読書
 『考える人』2016春号

 まず、「目次」にたどり着く前頁にある4篇がとても良かった。


 「圏外写真家」という新連載で都築響一氏が、オカダキサラという写真家の作品を取り上げながら、撮ることについて述べている。
 自分も含めてブログなどに載せている素人が、ちょっと心したい文章がある。

 ★「撮れる」と「撮る」のあいだにある深い溝を、多くのひとは理解しない。

 その溝を別の言葉に置き換えると「おもしろがりかたのセンス」ということになるのか。
 磨きたいことである。



 翻訳家の金原瑞人氏のエッセイは「つぎ上手とよく言われる」という一節から始まる。
 高知出身である氏の酒席の話をきっかけに、大皿料理の取り分けのことに移り、自らの仕事と結びつけて、次のように締めくくる。

★翻訳家というのは、原作の好きな部分を、自分の好きなように母語に移すことを第一に考えている

 料理を取り分けるのは「偉い人」のすることで、分けながら一番旨いところは自分が食べるということに翻訳を重ねたのは、見事な比喩だと思った。



 宮田珠己という方が「おっさんと『かわいい』」と題してコラムを書いている。
 「かわいい」という言葉を通して、彫刻や絵などの見方について述べているのだが、ここにも納得させられた一節がある。

★どのジャンルでも本物だけが持つあの手堅い感触、旨み成分のようなものが「かわいい」のなかにも厳然と存在するはず。その成分の正体はいったい何だろうか。



 全盲のエッセイスト三宮真由子氏の「美しい声とは」のエッセイは、ここしばらく自分が考えてきたことと似ていて、深く共感した。
 それは「声が人間の本質を表す」こと。

 光を失った方の独特の感性ならば、それはおそらくより明確に感じられるのかもしれない。
 氏は、六、七年前から日本人の声が変わったと思い始めたそうである。特に女性の発声が違ってきたと書く。

★喉からまっすぐ声が出ず、声帯の端に突っかかるような「躓いた声」が多くなった気がする。

 この現象がどんなものか、まだ明確に感じ取れないが、少なくとも発音の不明瞭さは感じることが多い。
 テレビのバラエティなどのテロップが日常化していることが一面の事実を伝えているだろう。
  「躓いた声」はおそらく、何かに「躓いている」ことも表している。その意味をじっくり考える必要がある。

「的」への一歩

2016年05月01日 | 雑記帳
 ここ数回書いてきたことをどれほど具体化できるかわからないが、展望を持つためにも現状を記しておこう。


 校内報や各種原稿、それに今までホームページにあげていたページのいくつかを印刷し、最後の実践集として製本を印刷所へ依頼して仕上げることができた。

 いずれ「クローゼット」として残しておいたサイトも、プロバイダーの改編により閉じることになりそうなので、いい機会だろう。

 契約していたネット関係も一つは解約した。
 受信トレイにあふれる様々なメール等はまだ整理できていないものが多い。
 焦らずやるかと思うといつまでも出来ないので、ここ一週間ぐらいで始末したい。


 さて、この一ヶ月「立候補」したことがあったか。
 ごくごく小さなことではあるが、二つばかりそっと手を挙げたことがある。
 何か見通しを持っているわけではない。しかし少しは「肉体仕事」も期待できので楽しみだ。

 そんなことも含めて、ブログを中心とした発信は続けていこうと思う。

 この「すぷりんぐぶろぐ」は、ベースキャンプ的な位置づけで、今後も読書記録などを中心にしていくつもりである。

 4月から、実にゆるぅく始めた「羽後のたべびと」、たいした告知もしなかったが、徐々にアクセスが増えている。これはまったくの「遊び」として食や旅などの身辺雑記を綴る。ある意味では「比べないで誉める」練習の場になるかもしれない。

 もう一つ、サイト「すぷりんぐ+α」を開設しているが、これはちょっとした手違いもあり今までの写真ページを消してしまった。
 「たべびと」の方で代替えできるので、今は休業中。
 もし次に動き出すとすれば、「すぷりんぐβ」!としてやってみたいと野心的なことを考えている。
 魅力ある何かとめぐり会えれば楽しい。


 さて、現職中は手をかけなかったTwitterとFacebookも少しずつ慣れていきたい。

 ツイッターは少し前に開いていたが、情報収集のみで、独自の活用はほとんど出来なかった。何かできるか考えたい。
 突然つぶやき始めるのも面白くないだろうか。
 https://twitter.com/haruonumazawa

 フェイスブックは多くの方がやっていると聞いていた。そこでどんな情報がやりとりされるのか、これも未知ではあるが、まあ時間もあるだろうから、というチャレンジである。
 今朝から、「友達申請」を始めている。

 スマホ使用者でない今の自分にとっては、常時的なツールの部分は必要でないので充分に使いこなせないとは思いつつ、多面的な情報に触れたり、つながりを拡げたりするには役立てるのではないか。もしよろしかったら登録してください。