すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ヤツメウナギと「ウ」の口

2018年07月21日 | 雑記帳
 去年の「土用の丑の日」はずいぶん豪華な中身を書いていたものだ。我ながら、よだれが出る。今年も「行事は大事にせねば」と訳の分からぬ能書きをたれて、スーパーの広告を羨ましそうに眺めたら、少しはありつくことが出来た。食べつつ、ウナギつながり話題で「ヤツメウナギ」と口にしたら、ふと昔を思い出した。


 二十代の頃に勤めた学校の近くに小料理屋があった。あれは、研究会の打ち上げだったろうか。職員の大半が参加する宴席に、黒い表皮のゴロっとした物体が見え隠れする味噌汁が出た。「ヤツメウナギ」だと言う。実家の隣には魚屋があったが、それは食したことがないなあとおっかなびっくり口にした記憶がある。


 その味がどうだったかという記憶はないが、その宴で忘れられない出来事があった。その春に転任してきたある先輩教師が、今までの教え子の自慢を始めた。以前は少なからず存在したタイプである。当時、若いだけで体育主任を任せられた私に言って聞かせたいことがあったのだろう。私には語るべき経験はなかった。


 「あの子どもは、このオレが…」といった調子でまくし立て、過去の大会での好成績などを語り続けた。正直、辟易し始めた頃、少し離れたところに居た校長が間近にやってきた。前年から同職していたが、物静かで叱る声など聞いたこともない人だ。優しそうな眼差しを向けつつ、きっぱりとした口調でこう言った。


 「それはみんな、子どもが偉いからだ」。かの先輩教師の言いかけた口が「」の形をして止まった。当時は品位という言葉など思いつかなかったが、まさに教師としての品を感じさせる一言。仕事を続けるうえでの心掛けの一つとなった。ウナギつながりで思い出した場面が、あの「ウ」の口だったのも何かの因縁か。

気づいたら、おみなたち

2018年07月20日 | 読書
 今月は自家用車運転の旅があったり、宿題でバタバタしたり、落ち着いた読書(いつもそうではないだろうと心の声はする)ができない。未読の在庫もなく、ではと少しばかり中古書店へ行って仕入れてきた。目についた背表紙を取ってカゴに入れてみると、なんだか女性作家ばかりになってしまい…。本性が出たか。


2018読了66
 『やさぐれるには、まだ早い!』(豊島ミホ メディアファクトリー)


 本県出身の作家、ライター。高校の同級生の娘さんであり、先日の同期会で少し母親と話をした。現在は結婚され子育て中のようだ。盛んに執筆していた10年前頃に連載していたエッセイが集約された一冊。第一回「東京」は前にどこかで読んだ。強い印象が残っている。田舎から都会へ出た若者の姿が、実に象徴的に切り取られている文章だ。同時に東京という街が抱えている感情と現実が垣間見える。小説も数冊読んだが、こうした身辺雑記のタッチがなかなか心地よい。


2018読了67
 『コンビニ人間』(村田紗耶香 文藝春秋)


 二年前の芥川賞受賞作。前から気になっていた。読了してみて、審査員、書評家たち、そしてたくさんの読者はこれをどう受け止めたのかと、そんなことも気になりだした。「コンビニ」が現代社会における一つの典型であることは誰しも認めるだろう。その「店員として生まれる」ことの意味は、通常の「生」の否定が前提となるわけだが、容易に可能にならない、個であるための生き様を強く問いかけているようだ。音に着目させて場面を浮かび上がらせる手法も斬新だ。


2018読了68
 『ちいさい旅 みーつけた』(俵万智 集英社be文庫)


 仮に自分が本を出すとしたら、こんな感じの一冊がいいと思わせられた。週刊誌連載のグラビアエッセイという形だ。旅エッセイ+写真で、当然ながら文章中に短歌が一首盛り込まれる。日本全国、いろいろ渋い箇所も訪れているが、ヒトも含めて詩的風景との出逢いにしっかり気づくためには、カメラや歌づくりという「道具」が必要なのか。特にいい歌だと沁みたのは、四国でお遍路さんと話した折の一首。「旅人の荷物の中に『心』という軽くて重いものを見ており

1000枚目の典型

2018年07月19日 | 雑記帳
 OLYMPUSの XZ1は数年前買ったデジカメである。安価ながらF1.8の絞り値で、主に室内用として重宝している。最近はもっぱら「家食」が多く、昨年閉じた食ブログのデータはそれで撮った写真が多い。パターン化してきたのでペースは落ちているが、おっと思う食は残す。最近だと、これか。ドジョウである。




 ドジョウ大好き、しかも小さめをやや固めに煮詰めたのが好みである。若い頃はさほどでもなかったが、同職した校務員さんからご馳走になり、はまってしまった。年間に何度も食べられるものではないが、本当に旨い。ああそれなのに、なぜか山椒の粉をきらしていて、山椒の葉を刻んで乗せているのがご愛敬。


 圧倒的に数多く撮っている昼食は、麺中心パターンは相変わらずである。最近は、もりそば、そうめん、ひやむぎ、冷麺、冷やし中華等が定番であり、絵としてそんなに変わり映えがしないので、カメラに手が伸びなかったが…何気なくPLAY画面を立ち上げてみたら、右上隅に現れた小さな数字に少しびっくりした。


 SD999となっている。つまり次が1000枚目だ。移行や削除をしなければ当然の数字だろうし、何の苦労、工夫もないまま続けてきたものだが、なんとなく感慨深い。PLAYボタンを押し続ければ、それはそれで1000近い日常が現れ、自分自身の一つの側面、いや典型なのだと言ってよくないか。で、今日撮ったのは…。



 なんと、カップ麺とは…。書いていることと何か違うんじゃない…と思われたかな。いやいや、本日はたまたま在庫保存食処分日となったのである。震災以降、カップ麺等をストックしておき賞味期限を見ながら三か月に一度ほど入替のため食す。まあ、これも典型と言えば典型か。それにしてもこんな暑い日に…。

「またナスがあ」という未熟

2018年07月18日 | 雑記帳
 今その場にいたら驚くほどの食卓だったはず。それほど「ナス」だらけだと思い出せる。味噌汁、漬物、煮物、素揚げ、天ぷら…そしてそれが何日も続く。子どもにはしょっぱいナス漬を小さく刻み、コップの中の水を吸わせる。「またナスがあ」と言われても、日々は続いていた。


 いつの頃からかそんな毎日はなくなった。別にさみしいとは思わなかったが、年齢が上がるとともにナスの美味しさに気づくようになったのも正直なところだ。昨夜、隣家よりいただいた漬物はうまかったなあ。揚げ物は既に食していたが、油を吸わないのが本来の味だと気付く。


 一見平凡に見える野菜だが、実はかなり「優等生」的な存在である。まず「一富士二鷹三なすび」という諺が凄い。それだけ縁起がいいのかと改めて思う。それは「親の意見と茄子の花は千に一つも無駄(もしくは仇)はない」にあるように、咲けば必ず実がなるという特性からだろう。


 「」という漢字も良いイメージだ。「なす」という読み方の他に「はちす」という「蓮(はす)のくき」を表す。「くさかんむり」+「加(勢いを助ける)」つまり、植物が伸び花になり実を結ぶための動きを表しているようだ。古くから育てられてきたこの野菜に歴史の重みさえ感じる。


 どうだろう。「ナスのような人間になれ」は激励のための言葉にならないか。成長をすべて実にするため頑張り、どんな調理にも対応し、様々な姿で人々を楽しませる…変化ある社会に対応できる理想形だろう。あっ昔「ナスビ」という芸人もいましたが…そのイメージではありません。

小市民のそんな在りかた

2018年07月17日 | 読書
 久しぶりに「宿題」を仰せつかり、ここ数日あれこれと忙しく、また悩ましい。ある会議のための資料作成ということだが、ちょっと創造力が必要な事項なので、夏休みの自由研究で悩む小学生のようなものか。時間はたっぷりあるが、やり遂げないと自分の好きなことはできない。


 性格的には、ぎりぎりになるまで手をつけないタイプというより、早くワッパガして、のんびりしたいと思う方だ。しかしこれが構想を練る段階を伴う内容だと、結構な時間が割かれることになる。考えることは苦痛ではないが、あまり出てこないと自らの非力を嘆くことになる。


 とはいえ大事な「約束」(ノルマではなく)だから、追い付詰めてみれば、何かしらのアイデアは絞り出せるものだ。それでも期限が迫ったら「見切り発車」。これはかの酒井臣吾先生の教えである。子どもたちに向かって、その考え方を説いたときもある。一つの覚悟の持ち方だろう。


 ふと、PC画面のデスクトップにある画像の文章が目に入る。久しぶりの「キニナルキ」として残しておこう。

Volume113
 「持つ人間でなく、ある人間になる。目的を持ち、その達成を目指すというより、今日、この瞬間、だれかのために存在している人になれ。」(エーリヒ・フロム)


 宿題はなんとか目途がたった。今日も暑いがビールは美味いだろう。なんだ、結局、そんな在りかたになってしまったか。

常ならぬ日常についていく

2018年07月16日 | 雑記帳
一時は盛んに見聞きしたが、なんだかあまり言わなくなった「異常気象」。まあこれだけ豪雨による災害が例年のように発生し、熱波と呼んでいい高温が続くと、誰しも「異常」の「常」とは何だろうと思ってしまうから、当然かもしれない。異常と呼んでいた状況が日常に近くなることは、けして喜ばしい事ではない。



「たぬきが出て畑を荒らすから」と近所の方に聞いた。かなり以前にそんな話が囁かれたことを覚えているが、一応の住宅地であってもそうなのか。と思っていたら、自宅カーポートに小さく張ったネットに這わせたキュウリが喰い散らかされていた。野良猫ではあるまいし…。棲み処を定め、今の時期をねらうのか。



旅行の写真整理をしていたら、思い出したことがあった。阿寒湖畔にあるホテルに泊まった時、ビュッフェ形式の夕食だった。果物も豊富にあり、時節柄メロンに目がいくのは当然だろう。しかし、あるテーブルの「半端ない」メロンの盛り方を目にすると、食べる気が次第に失せていくのだった。そう、異国のお方。



齢を重ねれば変化についていけなくなるのは、ある意味自然だろう。平穏な日常、節度ある暮らしが支えている大きさを実感するのは、経験値が高いからと言ってもよくないか。ただそれだけでは、萎んでいく未来しか待ってない気もする。感情を揺り動かされることに臆病にならない、「喜怒哀楽」をもう一度と思う。


(北紀行~食べ物篇で忘れた逸品「あさりラーメン」。これは美味しかった。釧路の市場内にあるラーメン屋さん。鉄腕ダッシュで究極のラーメンをつくる時に取材されていたようだった。)

北紀行~やっぱりコトバ篇

2018年07月15日 | 雑記帳
 長いドライブにはよそ見運転がつきもの…なんて、怖いことは書かれないが、見知らぬ土地では運転中でも、つい看板や店名などに目が向きがちである。

 見慣れない名前やコトバは、助手席の連れ合いとの絶好の話のタネにもなる。
 ぱっと一瞬で見取ったゆえに、正確さに欠けるかもしれないが、なんだあっと思ったことをいくつか。


 「赤字丼」

 えっ…と思ったが、おそらく道内産のたくさんの名物、ネタなどをのっけて、採算を度外視した(ような)豪華などんぶりを指すのだろう。

 しかし、普通なら「満足丼」とか「北のスペシャル丼」のような名称になるのではないか。
 つまり、買い手にとっての感覚が問題なのではないか。

 それを「ウチは赤字覚悟で出してます」と言った自分だけの勢いを名付けてしまうのは、あまりに不遜ではないか。
 「食べさせてやる感」に通じる不快さも残る。
 食べなくともいいぞ、赤字丼は!

 いや、そうでなく、ひょっとすると果実の赤い汁がかけられている丼も考えられるか。



 「小さな人生の卒業式」

 信号で止まった角にあるセレモニーホールの看板には、そんな一文がデザインされていた。

 なるほどね。
 北海道に限らず、小規模や家族だけの葬儀も多くなっているのだろう。
 でもこれだと、比喩としての「卒業式」が「小さな」でなく、「人生」の方が「小さな」ととられないか。

 そりゃあ多くの場合その通りの細やかさであることは認めるが、誰も葬儀屋に「小さな人生」とは言われたくないような気がする。

 それから「卒業」というからは、「証書」が必要だけど、当人がもらえないんだね。



 「人生の甘納豆」

 いろいろなショップでお菓子などを見て、ネーミングに感心したけれど、ベストはこれかなと思う。
 黒豆を使っていて、その横に記されたコピーもなかなか洒落ていた。

 「黒(くろ)うかけますが  豆(まめ)にがんばります」

 垢抜けなくとも、ダサくとも、しみじみとした味わいがあるコトバは心に沁みるものだ。

北紀行~食べびと篇

2018年07月14日 | 雑記帳
 「羽後のたべびと」を自称しているからには書かけねば…。

 と、結局こうしたネタは食べ物自慢になることは重々承知しており、何か視点を持つべきとは思いつつ「食いしん坊バンザイ」になるんだよね。

 
 旅の一日目、遅くにホテルに着いたので急いで検索して見つけた一軒の鮨店。
 これが、なかなか正解でした。
 築地、銀座で修業したという店主の赤酢を使った握りもよかったのですが、ちょいとつまみに頼んだ、鰹のたたきもこんな趣向で出され、見事でした。



 
 一度は本場で食べたいと願うものはいくつかあるものです。
 シーズンまっただなかではありませんが、「厚岸のカキ」もその一つ。
 祭りで賑わう道の駅でも、その夜釧路でも堪能できました。
 で、ここではあえてど真ん中を撮らずに、ありがちですが「カキソフトクリーム」を。
 この殻に見立てたコーン片が、なかなかいい味を出しているでしょ。


 

 もう一つ、本場のものでは「豚丼(ぶたどん)」。
 これは、もうど真ん中を載せてみます。
 豚丼といっても、店による個性があるのだそうです。
 こちらは、有名店「〇げ天」さんの4枚ものです。
 この黒胡椒の効かせ方が絶品でした。



 
 寄ってみたい超有名なお菓子屋がありました。
 そうです。北海道と言えば「六花亭」。
 その本店に行き、2階のカフェに行ってみました。
 レーズンバターサンドのアイス版が、さすがの値段と思わされました。




 道内最後の昼食に、そば屋を選びました。
 某村の道の駅に隣接してある古民家を移築した建物でした。
 頼んだのがこれです。



 少し蕎麦の見た目が悪いですが、食べたかったのはその上にある茶碗のものです。
 
 「究極の卵ごはん」。

 そうか、こういう食べ方があるのか。
 究極は少し盛っているけれど、納得の味でした。
 (肝心のショットがのこっていませんでした)
 

北紀行~そうだったか篇

2018年07月13日 | 雑記帳
 先週から今週にかけて北海道へ。
 数えてみると何度も出かけた地であり、惹きつけられることが多いのだろうと思う。
 そうでありながら、またそれとはかかわりもなく、旅にでると今さら「そうだったか」と気づくことがあるものだ。



 その1「そうだったか、霧の摩周湖」

 実は、もはや数十年前となる新婚旅行で訪れた摩周湖。
 その時はピーカンでまさに摩周ブルー、こういう天気は年に2,3度しかないと言われその幸運を喜んだものである。
 今回は天気がさほどでなく、立ち寄らなくてもいいかなという思いもあったのだが…。

 行ってみると、これが実に「霧の摩周湖」。
 適度に風が吹き、霧が周囲のカルデラ壁をかけ上がったり、カムイシュ島を覆ったりして、その変化する姿が美しい。

 こういう自然がうつりゆく様を眺めるものだったのですね、布施明さん、いや平尾昌晃先生。



 その2「そうだったのか、豆王国」

 研修(笑)と称して、かなりの数の「道の駅」探訪をする。
 どの駅でも圧倒的に目に付くのが「豆」の多さだ。
 まあ、このあたりの店でも「北海道産」「十勝産」の小豆が目立つことは確かだから当然か。
 中には「豆博物館」を隣接する駅もあり、興味深く観てきた。

 これほど豆類が生産されていることはやはり土地の広さ、人手の少なさが関わると改めて考えた。
 栽培、収穫に難儀さが少ないとは言えないが、比較すると手間はかからぬ部類だ。
 ただその割に加工に関して際立ったモノがないことは、大自然に住む生活自体の厳しさも影響したのかもしれない。



 その3「そうだったのか、笑顔と声かけ」

 回った「商店」「飲食店」「宿」「施設」が多かったので、好印象とそうでないところの差が、較べようとしなくても思い浮かんでくる。
 結局、上記の二つの点が支配すると、本当に実感する。

 平日夜にも関わらず満席のレストランには、短時間しかいなかったが見事な対応に感心しきりであった。
 ある宿内のビュッフェスタッフの明るい対応に比べ、売り場スタッフが酷く違っていたことも印象深い。

 スタッフ個人の資質以上に大切なことは何か、これはもう語りつくされていることだ。

あの戌年の夏~歌③

2018年07月12日 | 教育ノート
 毎日およそ30~40分ほど立ち続けて、ずいぶんと自然を感じた時期だった。

 学校生活の中でも結構親しむことのできた期間だったなあ。

 とりあえず、夏篇はここらで締めとする。


◆タンポポはどこで
 ~06/15/2006


 5月の初めの頃だった。
 朝の交差点、横断歩道の前で今年のタンポポを、こんな形で意識した。

 もち上げて
 このアスファルトもち上げて
 お日様見つめる
 いのち咲かすよ


 そして、6月も中旬。
 時期が外れても、まだ、まだ。

 緑もえてタンポポ一輪(ひとつ)
 いいんだよ
 遅く咲いても
 どこで咲いても



◆ぼんやりと気づく朝
 ~06/16/2006 ~



 ほぼ毎日同じ風景を見ていても、見え方に違いがあり、何かしら、新しく見つけるものがあることを、今さらながら気づいている。


 カワラズニ
 アリツヅケルモノナドハ
 ドコニモナイワと
 鳶高くまわる

 

 野の花の呼び名一つも知らないで
 五十になるまで何を覚えた



◆生けるものよ
 ~06/27/2006~


 梅雨に入ったというが、そこそこの天候が続いている。
 日ごとに変化する朝の風景は結構飽きないものだ。

 
 雨煙り
 千年前もここにいた山
 もの言わず姿現す


 まだそこにいたのかい 蛙
 あざやかな緑くすまぬうちに
 跳びのけよ 



◆色に出会う日
 ~07/05/2006~


 他人様の文章を推敲する機会を得た。
 何を伝えようとするのか、必死に読み取ろうとして、浮かんできたものは「出会おうとする心」だった。

 今日も、いくつのことに出会えるだろう。


 梅雨止みて目に流れ込む
 田の緑 山の緑と 連なる青と


 夕暮の黄から赤へ紫へ
 モンシロチョウ花壇散歩す