すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

規準は自分のなかにある

2018年07月28日 | 読書
 「わたしには孤独死の範囲がよくわからない」と著者は書く。メディア内の「孤独死」という言葉で、「なんとなく」イメージできる事はあるが、本当に孤独と断言できるか。まして死という状況を安易に重ねて判断していいものか。軽く再読と手にしたが、時代の流れ、人間同士の関係性が浮かび上がる一冊と感心した。


2018読了71
 『言えないコトバ』(益田ミリ  集英社文庫)



 再読本にはやっぱり魅力がある、少なくとも共感できる要素が多くあるということだろう。下記のように5年前に読み2回感想メモを書いていることが何よりの証拠だ。時折週刊誌で見る著者の書くコミックもいい味がするし、エッセイは実に的を射ている。変な言い回しかもしれないが「押し付け感」皆無の文章だ。


 「言えない」から「言わない」へ

 かわいそうもうらやましいも誤魔化し


 今回、ああいいと思ったのは、取り上げた自分の言葉遣い、言葉選びに関してこう述べていることである。「流されてよいところでは、ざぶざぶと流される。そこにわたしの本質なんてないのだから」と言い切ったこと。これは、先日書いた「正しい配分法を見つける」論にも通ずるものを感じる。一つの覚悟に近い。


 肝心なのは、「流されてはよくない」部分である。例えば、以前書いた「(人が)つかえない」がそうだ。さらに、作家等の「(セリフが)降りてくる」も当てはまる。著者は「思いつく」を使うといい、その二つの間に「照れくさい」川が流れていると書く。けれど、それは表現者として正直にありたい姿勢そのものだ。


 世の中には様々な言葉が溢れ、浮かんでは消える。何を選ぶかは個人に任せられているが、規準を持っているのはあくまで自分なのだと心したい。口にする言葉に鈍感であるのは、自分自身に鈍感なことであり、周囲や社会に対してはさらに鈍感になる。言葉の濁流、流木に振り回されてばかりでは、行方を見失う。