すぷりんぐぶろぐ

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「ほど」が機能を維持する

2018年07月23日 | 読書
Volume114
 「人間の便利さと道具としての使いやすさの”ほど”が良かったんだと思います。いまは大事なところまで機械に手助けされて、人間の機能が失われている気がする。」


 通販雑誌の対談で、落語家の春風亭昇太が昭和期の家電について語ったことば。

 内容も確かに頷いたが、「ほど」という語が目に残った。
 この頃、その語自体があまり使われなくなった。

 言うまでもなく、「ほど」とは「」であり、「程度」を示す。
 広辞苑によると、示される度合は「時間」「空間」「物事の程度・数量」に大きく区分されている。

 慣用句として「程がある」「程が好い」があるように、その一字を持って適切さや洗練、粋といった印象につながるようである。

 「ほどほど」という畳語は、多くの場合「行き過ぎない、適度」というニュアンスをうまく伝える言葉だ。


 さて、どうしてあまり使われなくなったか。勝手に書き散らすと…

 つまりは「『ほど』が共有できなくなってきた」ということではないか。

 多くの人にとって「適切」な度合いが違うようになってきた。
 また、そんなふうに社会、消費社会が作りあげられてきたのではないか。

 それは、一つにはもっと便利にもっと贅沢にという物質欲望の拡大の中で、そしてもう一つは背中合わせのように進む個別化、個性化賛美の中で。

 「ほど」が拡散してしまい、見えなくなってしまった。

 しかし、この「ほど」はまた、取り戻せるものではないかと思う。
 自分の身体や心をよく見つめ、また実際に動くなり、イメージするなりを繰り返してみて、どうすれば心地よく落ち着くのかを探ることは出来るはずである。
 その作業過程のなかで、自分が毒されている事物、感情などに気づけるのではないかとも思う。


 自分の「ほど」を知り生活するということは、先の昇太の言葉に照らし合わせれば、自分の「機能」を最大限に発揮できる状態を維持するとも言い換えられる。