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普通がいいでは病に負けるか

2020年04月24日 | 読書
 『「普通がいい」という病』という言葉だけを「今」聞けば、大半の人は病気と呼ばれてもいいから「普通がいい」と言うにちがいない。それだけ「普通」でない状況にあるわけだから。実は、これは十数年も前に出された新書の題名で、著者は泉谷閑示氏。以前『反教育論』を興味深く読んだが、こちらも面白かった。


 ここでいう「普通」とは、他者との比較である。通常の社会においては、平凡、標準的といった価値観は支配的と言っても良かった。そこに適応できない人間が増え始めた訳は、多くの心理学者などが語ってきた通りだ。この著でいえば、一個人の「心と身体」が、自らの「頭」によって独裁されているからと表現される。


 考えさせられる箇所が本当にたくさんあった。「自己形成のイメージ」という図もわかりやすかった。「あるべき自己」を考えている人は「塑造的自己形成(粘土や石膏を付けていく)」だが、もう一つ本当の自分を削りだす「彫刻的自己形成」がある。内在する自分に目を向ける、削ぐ、磨くという感覚の大切さを想った。


 「生きているもの・死んでいるもの」の章にも、ふと気づかされることが多かった。例えば「死んでいるものの背景には、機械的な反復があるのではないか」「生きているものにとっては、マニュアルではなくある種の即興性が大事です」仕事であれ趣味であれ、私達の心と身体に訴えてくる「生」の本質を見る気がした。


 と、「生きるため、感染拡大を防ぐ」ために「マニュアル」が何より求められる現況で、どんな即興性ができるのか、などと言いたくなる。しかしそう思っても、よく目を凝らせば、誰しも先が見通せない今であっても、発揮している人は発揮しているなあと分かる。「ほぼ日」エッセイの昨日の締め括りの一文はこうだ。

 「いまがいちばん頭と手が動いている、という人でありたい。」