すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

衰えにSOC理論で対する

2020年11月18日 | 読書
 先日、脳トレをしなくては…と軽く書いたまま、結局出来ずにいる。再び例の数値入れを行ったらまたぞろ間違い、自分のぐずぐずさを少し責め立てた。ところがこの新書を読んだら「脳トレの効果の疑問視」という部分を見つけ、変な安心も出てきた。こういうどっちつかずが一番いけないと思いつつ読み始める。


『老いと記憶』(増本康平  中公新書)


 真っ向からの脳トレ批判ではない。確かに「筋トレ」であっても全身に効果を及ぼすわけではないし、限られた部分の鍛えがどの程度影響するのかと問われれば、そんな気もする。ただ部分が全体に波及する場合も多くあるし、学術的なデータはどうあれ、何かが実効するには「信じる」が肝心と自前の論理で読んだ。



 副題として「加齢で得るもの、失うもの」とつけられている。長期記憶、ワーキングメモリ、情報処理などは確かに衰えていくことが示されている。しかし言語的知識(意味記憶)などは、加齢によって増加する例もある。その点は以前から知っていたが、繰り返し読んで安心する自分にも笑える。では何をすべきか。


 著者は「記憶補助ツール」と「習慣」について述べている。目新しくはないが、手帳やスマホの活用、そして繰り返す生活、行動パターンによって、加齢による記憶の衰えをカバーしていくことは難しくないと思った。そしてそれらを薦める基盤となった心理学の「SOC理論」と称されるマネジメントに興味が湧いた。


 選択(Selection)・最適化(Optimization)・補償(Compensation)の頭文字からとったその理論は、心理学領域の大家であるらしいパルテス博士の提唱だ。それは、記憶に限らず様々な衰えに対するマネジメントとして有効だ。何か効果を上げたいとき、「絞る」「集中する」「工夫する」が必須なことを、思い出してみよう。

真実よりもなお真実を

2020年11月17日 | 読書
 図書館主催の読書紹介文コンクールで入賞した作文に、やなせたかし著の『わたしが正義について語るなら』(ポプラ社)を取り上げた子がいた。また数年前亡くなったときに、やなせたかしについて少しだけメモしたことも残っていた。その辺りの縁からこの文庫を手にしてみて、本当にアンパンマンは偉大だと思った。


『やなせたかし 明日をひらく言葉』(PHP研究所編)


 我々の世代だとアンパンマンというより「手のひらを太陽に」という歌に圧倒的な存在感がある。誰しも口ずさめる歌の一つと言っていいだろう。1962年に作られた曲は2年後に教科書に載った。子どもの頃も、また教員になった70年代後半から80年代にはよくどこの学校でも歌声が聴かれたように記憶している。


 「♪生きているから悲しいんだ♪」というフレーズも幼いなりにそのまま受け取った。これはアンパンマンにみる、正義や悪、喜びと悲しみ、友情や裏切り…包み隠さず現実を見せる手法なのだと思う。「人生の最大のよろこびは、人をよろこばせること」と語る著者の、他人と自分を励まし続けるための言葉が満載だ。



 冒頭に「ぼくらはみんな、それぞれに違う思い出を持っている。そして、なるべくよい思い出を作りたいと思って人生を生きる」とあった。その「よい思い出」を作るために、著者は自分を見つめ、好きなことを掘り下げ、様々な挫折や苦境にも負けず、絶えず「表現」に向き合ってきた。その芯をこの文章に感じた。

いつでもほんとうのことを書かなくてはいけないのですが
そのほんとうのことというのは、
眼に見えたそのままでなく、
真実よりもなお真実というものです。
それが精神的な部分に命中したとき、
私たちは感動するのです。



 「真実よりもなお真実」…ぐっとくる。今、目にしている耳にしている現実は、ノイズが多すぎる。それも含めて真実と呼ぶ向きもあろう。けれど人はどれほどに多くのことを抱えられるのか。多様で複雑な状況を認めつつ、正義とは…善とは…と本質をしっかり握りしめる意味を忘れてはいけないと諭された気がする。

霜月日記

2020年11月15日 | 雑記帳
 雪がちらちらするかと思ったら、予想外に穏やかな週だった。

11月9日(月)
 雨風が強い朝だ。晩秋というより初冬の趣だ。今日は休館日で孫二人と過ごす日になる。しかし外には出かけられない。昨日から始まった大相撲を多少ゆっくり見られるか。両横綱のふがいない休場(怒)。大関陣に期待するしかないが、新大関正代は危なっかしい初戦だったので、どうなることやら。また波乱含みか。


11月10日(火)
 今日は出勤後に、教育委員会から呼び出しがあり、来年度予算編成についての事前打ち合わせ。厳しくなるのは承知のうえだ。方針が問われる。午後から中学校との連携事業があるのでその資料作りに取り掛かる。読書に結び付けるような工夫を凝らしたい。図書館ブログで拡大読書器を紹介したらシェアが多かった


11月11日(水)
 いよいよ外気温も10℃以下。朝にネットマガジンで、野口先生のよく仰る言葉が紹介されていた。「手に入れたものは全て失い、与えたものだけが残る」…改めて「晩晴」を目指したいと思う。今日は、大型絵本の中身を点検したり、予算提出案を決めたり、12月イベントの相談をしたり、慌ただしい午後になった。


11月12日(木)
 小春日和。勤務予定がないので、わずかな冬囲い作業に取り掛かる。量販店にいって材料等を買い込み、午前中になんとか完了。言うまでもなく「手ボキャ」を自覚する。あとはのんびり買ったCD取り込みをした後、相撲観戦ということになるが、朝乃山に続き正代も休場とは…。これもコロナが遠因ということかな。


11月13日(金) 
 『このゴミは収集できません』という本が面白かった。今日は朝にこども園児たちが来館したので、帰る前に大型絵本を一つ読み聞かせた。午後から町関係の作文審査を行い、今後の大会設定などを協議する。感染の今後が怖い。家に帰って多少疲れを感じる。雪見豆腐、生ガキの美味しい季節。スタミナをつけねば…。



11月14日(土)
 今日も天気が良い。今月土曜開催している図書館ワークショップ、今回も十数人が参加してくれ順調だ。先週と同様にブログアップする。その後、退勤して町内の農家キッチンへ昼食を摂りに出向く。冬場は休業するようだ。お母さんたちの元気がいい。午後は、定期的に依頼されている商品シールの印刷をこなす。

小状況で本当のことを

2020年11月14日 | 読書
 好きな詩人は何人か挙げられるが、一番目にしてきたのは、まど・みちおか谷川俊太郎のどちらかではないか。ポピュラーであることは、より多くの人の心に字句を残している証拠とも言える。平凡な読者の平凡な心に着地する言葉、それは詩という形式をとらなくても、読み手のなかでは詩なんだなと改めて感じる。


『星空の 谷川俊太郎 質問箱』(谷川俊太郎 株式会社ほぼ日)


 同じ形の「質問箱」を読んだのは何年前だったか。今、検索してみたら10年前の正月…うわあ、こんなこと書いていたと久しぶりに現役感満載の文章が恥ずかしい.しかしそれに比べ今は、どこかしら達観に近づきたいという、どこかイヤらしい心根がある。老害か。まず目についたのが「忘れる」質問についての答。


 「忘れたことは、憶えていることよりも、深い心のどこかに保存されていて、それも自分を作っている一つの要素だと考えたい」…うーん、有難いお言葉だ。なんせ昨夜も夫婦で、ある女性同僚(二人とも一緒に勤務したことがある)の名前を思い出せず…はてに旧姓は覚えているのにと口にしたり…、混乱は救われる。



 たくさん心に残りそうな字句があったが、これは書き抜いて自分に念押ししようと思った一言がある。「本当のことを見抜くには」という質問に対して、メディア上で難しいとしながら、次のように答える「『本当のこと』が分からない大状況の中で、小状況での『本当のこと』の経験を生かすことはできるのではないか


 些末主義ということなかれ。昨日記した「ゴミ」の件も全くそうではないか。否が応でも次々と情報が押し寄せてくる今だから、仮に半径数メートルの場であっても誠実に手応えある言動を心がけたい。この「質問箱」に触れて、ある新しい思いつきが生まれたし、踏み出せば小状況をさらに充実できるかもしれない。

後回しにはできない問題

2020年11月13日 | 読書
 よく訪問する教育関係のブログで紹介されていて、読んでみたいとすぐ思い注文した。著者の本業?は漫才師。マシンガンズという名に記憶はあるが顔はすぐ浮かんでこない。というような境遇が彼をこの仕事に就かせたのだろう。その日常をツイッターにアップしていて話題になったらしい。面白くないわけがない。

『このゴミは収集できません』(滝沢秀一  白夜書房)


 幼い男の子はゴミ収集車に興味をよく示す。大人はその仕事を「3K」と称す。職業に貴賤なしと言われても、業務のハードさは想像がつくし、多くの人が持つイメージは未だに払しょくされない。倉本聡の名ドラマ「北の国から」で純をその仕事に就かせた意図は明らかだ。社会構図を考えるうえでの貴重な存在だ。


 読む前から「ゴミを見れば人の本性がわかるのではないか」「ゴミを考えれば社会のある面が見えるのではないか」と考えていた。まさしく、それらは文章に表されていた。ゴミ収集に関わる当事者の、実に臨場感があふれる表現だった。第一章のイラストつきツィートを、笑いながら見ていても考えさせられる部分がある。

12#ゴミ清掃員の日常
 ゴミを出し忘れたと走ってくる人はかわいいものだが、たまに自転車で追ってくる人がいる。自転車で追ってくる人はそれでもまだかわいい方だ。ごくたまに車で追ってくる人がいる。そこまでの執念があるならば、なぜほんの少し早起きできなかったのか?


 もちろん、まれな状況であることはわかる。しかし皮肉ともとれるこの表現は、今の社会の、都会で暮らす人々の、ある面の縮図ではないか。絶えず何かに疲れ、追われ、間に合わせなければならない日々で、判断に狂いが生じたり、歪みが見えたりする姿と言えないか。ゴミは一番後回しにしていい問題ではないのだ。



 興味深かった事の一つに「格差」がある。生活程度によってゴミの中味や量が違うのは予想されることだ。都会の実態とはいえなるほどと思った、著者の「結論」は次の通り。「金持ちは気持ちに余裕があるので、自分に目を向け、自己投資をしている。その自己投資が小さな消費を抑えていると言っても過言ではない


 「世界一ゴミだらけの日本」で示されるデータには、改めて驚く。産業廃棄物だけでなく生活ゴミレベルでも他国を凌駕している。その打開は、かなり骨太な政策がないと困難だ。国民としてはその自覚を持ちつつ、とりあえず著者の最後の願い「生ごみの水分をなるべく切ってください」だけは、きちんと応えよう。

「女らしさ」との邂逅

2020年11月12日 | 読書
 2008年にこの直木賞作品を文庫本で読んだ。小説好きとは言えない自分が、作家に少しハマって連続してその作品群を手にした記憶がある。今回、中古で単行本を買い求めたのはちょっとした理由があった。それはともかく、初読では印象に残らなかった点が響いてきたこともあり、いい再読となった。これも邂逅か。


『邂逅の森』(熊谷達也  文藝春秋)


 主人公はマタギである松橋富治。格闘する相手はクマ。もちろん山の自然、時代背景が彩る設定だが、読了して物語を進めていくうえで必須だったのが二人の女ということが、今回はしみじみと迫ってきた。主人公が歩む道を決める存在であるとともに、どの場所、どの時代にあっても揺らがない芯を感じさせてくれた。


 一人は、富治が生まれ育った村の地主の娘である文枝。富治と契りを結び、子をなしたことにより、富治は村を追われる。もう一人は妻となるイク。山間の極貧の家に生まれ身売りをし、その果てに村の厄介者として蔑まれていた所を、いったん離れたマタギの世界に戻ろうとする富治と出会い、強く支える存在となる。



 『図書』11月号(岩波書店)に畑中章宏という民俗学者が、「女らしさ」という題で寄稿している。そこで取り上げられているのは「近代日本で『女らしさ』を問題視した言説」で、代表的な例として与謝野晶子そして宮本百合子が挙げられている。この小説の舞台となる大正時代から昭和前半とぴたりと重なっている。


 旧来からの「女らしさ」という観念は、社会形成の変遷の中で男性が作りあげたと言えるだろう。与謝野も宮本もそれに対する懐疑を述べ、最終的に「人間らしさ」という点にたどり着いた。話に登場した二人の女性は、抑えつけられていた境遇の典型的人物であり、そこからの変貌は、そのまま当てはまると思う。


 形として双方とも「家」を守る旧態依然とした姿のままではあるが、それに到る展開は、まさに「人間」とは何かに向けての問いであった。二人が対峙したとき、言葉を交わさず頬を張り、張り返すことで「約束を交わした」場面は短いが、迫力が伝わってきた。ふだんもよく思うが(笑)、「女らしさ」の強さの本髄を見た。

言葉を蔑ろに加速するな

2020年11月11日 | 読書
『日本語を、取り戻す』(小田嶋隆 亜紀書房)からの連想、もう一回。


 要するに、幅広く物事を考え対処しようという姿勢ではなく、パッパッと物事を決め、ドンドン進めていかなければ、取り残されていきますよ、そのためにはオカミの言うことを聞いてください…といった雰囲気いや「空気」の醸成は、高度成長が終わりバブルがはじけ、大震災を経験する中で、つくり上げられてきた。


 わが師の教えの一つに「何でも言える子ではなく、言うべきことを言う子に育てよ」がある。自省を込めて思う。どんなことでも臆せず言う人間は増えたが、言うべきことをきちんと声にする人間は少なくなった。それはつまり、自分の考えや感情にしっかり向き合い、使う言葉を選択、決断する習慣の衰えではないか。



 一方「怒り」が悪の感情として受けとめられ、いかに逸らすか、なだめるかばかりが強調される世の中になった。これは客観的、冷静であるという側面とともに、どうしても打算的で利己的な精神ばかり膨らませているようにも感じる。そこに使われる言葉は、無味無臭とは言わないが、誰にも伝わらず蓄えられもしない。


 TV、ネット上ではお笑い芸人や俳優などがよく政治的なことを語っている。それ自体は何も悪くない。しかしそれで稼ごうとしていたり、自陣に有利さを与したりすることは違うのではないか。この国のそんな状況に慣れっこになった感覚を今、もう一度反省するべきだ。それはここ十年ほどで怖ろしく加速した。


 そこを担った前政権支持率が若年層で高かった理由…著者の見解に今さら納得がいく。スローガンの一つ「戦後レジームからの脱却」に対して、若い世代には保守の安倍氏が「『革命』を志しているように見え」たらしい。作り上げられた体制が、若者に窮屈なのはいつの時代も同じだ。歴史はそんなふうに廻っている。

取り戻したい、日本語を

2020年11月10日 | 読書
 同年生まれのこのコラムニストの文章は時々ネット上で読むが、単行本は2冊目である。一昨年に読んだ本も面白かった。ほんのいくらか自分に似ている印象を持つ。立ち位置が右か左かということではなく、言葉が気になる(気にするか)タイプというか。もちろんこんな大きな題で書ける力量は自分にはないが…。


『日本語を、取り戻す』(小田嶋隆  亜紀書房)


 この書名が前首相の掲げた一つのスローガンのもじりと気づく人は多いはずだ。数年前から今年三月までの文章で構成され、前政権担当者らによる施策や失策(笑)に関わる言葉を、著者なりの構えからバサリと斬り込んでみせる。その切り口は鋭さというより重さが際立つ。情報の溢れかえる時代に必要な剣客の一人だ。



 授業研究会で「重箱の隅をつつく」と評された思い出を以前書いた。些細な部分にこそ宿る本質があると考えていたからだ。政治家やメディアに登場する人の言葉遣いも同じ。著者の語る「民主主義を実現するための政治とは、つまり重箱の隅を整理する議論にほかならない」という一節に頷く。その感覚は保ちたい。


 著者が二年前書いた次の文章は、繰り返された米国大統領選挙報道の客観的な見方の一つだと思わないか。「世界を動かしているのは、真相ではない。われわれの心を動かすのは印象であり憶測であり予断であり不安だ。」まるでショータイムのようだった。今後の経過と結末が及ぼす影響もまた、我々の心の中にある。


 第三章「ワンフレーズの罠」からは、「日本語を、取り戻す」ためのポイントが明確に読み取れる。時折メディアでも指摘される、そうした字句にどれほど具体性と明示できる根拠があるかを問うことだ。喫緊の学術会員任命問題を見れば言うまでもない。さらには根拠があっても堂々と示さない。その構図に慣れ切った。

7桁数字に、12回目で躓く

2020年11月07日 | 雑記帳
 セコイ話を打ち明けるが、缶ビールについている応募シールなどを集めて送ることがある。かなり前にビール好きにとっては嬉しい限定品を頂けたことがきっかけになっている。この頃はネットの専用サイトに番号を打ち込む形になっていて、「必ず」手に入るグッズや、抽選の当選品を手にして一人悦に入っている。


 半年ほど前に番号打ち込みを忘れて期限切れになったことがあり、やや悔しかった。今回はそれ以来サイトを訪問して貯まったシールを打ち込む。ただその手間は面倒であり、数字が小さくて見づらさが増し、何か励みがないと駄目だ。そこでふと思いついたのが「脳トレ」的なチャレンジ。数字の打ち込みも似ている。



 人はふつう七桁か八桁までは暗記できるという。この登録するナンバーは七桁。「1234567」とあれば、今の段階で楽に感じるは「123」と「4567」に分けて入れる形だ。しかしここは一気に七桁覚えて打ち込むと決めてみた。登録する画面は一度に12箇所。これなら全部、正確にできるはずと勇んでやってみたら…あら。


 「誤りがあります」という提示が出る。見たら、最後の数字枠に一個間違いがあった。まあいいかと思い、次画面でも同じように挑戦してみた。今度は大丈夫だろう。順調に七桁数字を12箇所打ち込み「登録」をクリックすると…「誤りがあります」…あらら。そして、なんとこれも最終数字での間違い。気の緩みか。


 人名等ふだんの物忘れには慣れっこになり、ほぼ笑ってごまかすが、数字記憶となると何かに支障がでてくるかもしれない。「脳トレを始めるタイミングは気づいた時です」とかの川島隆太博士は言っている。効果を求めたい時は週3回、現状維持は週2回で、週1回では低下だと言う。週2回はやります!さて、何を…(笑)。

初々しい時間を取り戻せ

2020年11月06日 | 雑記帳
 今週初めの読み聞かせは、終了後ちょっと後味が悪かった。失敗だったかという思いが残った。読みに詰まったり、間違えたりということはなかったが、対象の5年生の反応(子供たちはそれなりに感想を述べてくれた)が今ひとつ自分に響いてこなかった。ということは、選書か。読みの技術、工夫の足りなさか。



 実は今回、こんなふうに切り出して紹介した。「絵本というのは、絵とことばで出来ています。なかには絵だけの本もあるし、逆に文字、ことばが多い本もあります」と言って、「絵が中心」の『サルビルサ』(スズキコージ)と「文(ことば)が多い」の『いちはちじゅうのもぉくもく』(桂文我)を取り上げたのだった。


 『サルビルサ』は不明な言語が短く発せられるだけで、絵を見て展開を想像する話だ。人数も多いので大型TVに映す形で行った。ただ高学年にとっては短かったので、物足りなかったか。そんな印象も残った。もう一冊は落語「平林」を元にした、いわば語り主体の本。笑いも起きたが予想した場面ではなかった。


 落語の絵本は結構ある。しかし現職の時から何度となく「紙芝居」で取り上げてきたのは、絵本を見せながら語る難しさを感じていたからだ。先月の研修会で講師からその書名を聞いたものだから、少しやる気モードに入った。結構読み込んで臨んだつもりだが、甘くなかった。「噺」を語る腕前には遠いということか。


 読み聞かせの大先輩の原稿を読ませていただく。「長い文章を時間内に読みきるために滑舌の訓練中です。笑ってくれるかしら。うまく伝えられるかしら。何歳になっても初々しい時間を取り戻せます」と記されていた。自分が反省するべきは、練習時間の気持ちの持ち様か。「初々しい時間」から離れた気がしている。